9-3

文字数 1,896文字

 鰐十郎は桑水流が決勝まで進むことを微塵も疑ってなかった。
 その桑水流が初戦に登場する。相手は昨年のベストフォーに残った相撲取りのような体格をした恐山だ。じっくりと腰を落として、強烈な突きと蹴りを繰り出す。一発でも入れば一本負けは当然、そのまま病院送りになりかねない剛腕だ。だが、たとえ防御したとしても、その威力はダメージを与えるに十分な威力を持っている。
 そんな対戦相手にどう対処するのか。鰐十郎の全神経は向こうの試合場に向けられていた。桑水流は例によってフェイントを交えながら軽い攻撃を繰り出している。当然ながら相手の爆発的なカウンターを考慮してか、攻撃は浅い。
 恐山が体格に似合わぬ素早さで前に出て蹴りを放つ。桑水流はかろうじてそれをかわし、体勢を整える。それからの攻防は次第に一方的になってきた。恐山の攻撃と桑水流の受けだ。ほとんどの攻撃はフェイントを入れてうまく捌いていたが、手や足で防御した際のダメージは徐々に蓄積してく。そして、防御のためのフェイントが次第に甘くなる。
 顔面を殴られるのを嫌ったのか、右腕が必要以上にあがったと思った瞬間のことだった。狙っていたように、恐山の正拳突きが桑水流のボディを捕える。この瞬間的な動きを見切った者はあまりいなかっただろう。だが、彼らは一様にその結果に驚愕したに違いない。床に転がっていたのは桑水流でなく恐山だった。
 顔を見合わせるように二人の審判が赤旗をあげ、もう一人も慌てて旗をあげた。
 遠く離れて見ていた鰐十郎には全く別の世界が見えていた。敢えて桑水流が隙を見せ、そこを攻撃されることを予測して体を捻りながら、相手の顔面にカウンターの突きを叩きこんだことを。
 やはりそうだったか、と確信した。これまでの戦いを見て予想はしていたのだが、この一戦で明らかになった。敢えて隙を見せることによって、相手の攻撃を誘い込んでいるのだ。だが、からくりがわかったからといって、そのまま対処できるものでもない。そもそも、こんな技が使えるのは控えめに言っても達人の領域だ。
 その後、桑水流も鰐十郎も順調に勝ち上がった。それぞれの山の代表、つまり次は新人個人戦の決勝戦だ。
 鰐十郎は一つ大きな深呼吸をした。
 主審の初めの合図で、距離をとりつつ互いに構える。桑水流に威圧感はない。流れるような体の動きと目まぐるしく動く両手のフェイント。このフェイントが曲者なのだ。フェイントを見切ることは不可能だろう。ならばいっそのことフェイントは無視すればいい。
 鰐十郎の鋭い突きと蹴りを桑水流は紙一重でかわしていく。さらに攻撃を加速させると、次第にフェイントに乱れが生じる。そこに打ち込んではいけないと頭ではわかっているのに、体が動いてしまう。案の定鋭い反撃が顔面に繰り出される。かろうじてかわしたものの、ナイフで切ったように頬が痛む。手でこするとべっとりと血がついていた。
 仕切り直した後、鰐十郎は思い切って大技を仕掛けてみた。危険を承知の上でコンビネーション技で攻撃する。そして、最後の攻撃に意図的に変化をつける。わざと空振りをし、ボクシングのデンプシーロールのような動きで遠回りの返しのパンチを放つ。
 決まった。……と思ったが、赤旗は一本しかあがらなかった。倒れ込んでいた桑水流が軽い身のこなしで立ち上がる。眼の上がざっくりと切れ、ダラダラと血が流れている。
 ドクターストップが入り、簡単な手当の後、試合は再開された。
 タイミングが読めて来たので、鰐十郎はコンビネーションで攻め立てた。相手はダメージを負っている。完全に回復する前に仕留めねばならない。例によって桑水流は隙のあるフェイントで攻撃を誘ってくる。鰐十郎は再び大技を仕掛け相手の意表をついたアッパーを繰り出した。桑水流はそれを紙一重でかわしながら、驚くべきことにのけぞりながら前蹴りで鰐十郎のがら空きの顎を狙ってきた。かろうじてかわしたと思ったが、蹴りは顎の先端をとらえ、鰐十郎は数メートル飛ばされた。
 咄嗟に起き上がって審判を見る。――大丈夫。赤旗は一本だけだ。すぐに飛び起きたが、胸元が酷くヌルヌルしている。かすり傷程度かと思っていたが、顎のダメージは思いのほか深く大量出血しているのだ。
 すぐに構えをとったが、案の定ドクターストップがかかった。
 ――大丈夫です。まだ戦えます。
 そう言いたかったが、出てきたのは言葉でなく、ヨダレまみれの血だった。
 ドクターは鰐十郎の手を取り、反対の手でポンポンと叩いた。それから主審に向かって、両手で×の字を作ってみせた。
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