5-2

文字数 1,127文字

 香澄は男のいた方に向かって歩き始めた。踊っている人で埋め尽くされたフロアを移動するのは至難の業だ。しばらく進むと、方向さえわからなくなる。
 再び男の視線を感じる。だが、目を向けた瞬間その姿は見えなくなる。
「ご気分でもお悪いんじゃないですか?」
 黒服を着た女性スタッフが横に立っていた。フロアの真ん中で右往左往している香澄を見て、気分が悪くなったのだと思ったのだろう。香澄が返事をするより早く、腕をとって誘導する。人混みを抜け、壁際まで来ると比較的人は少ない。しかも壁に沿って小さなイスとテーブルが並べられている。ほとんどは埋まっていたが、ようやく空きを見つけるとそこに香澄を座らせた。
「ここでしばらく休んでいるといいです。何しろこの密集ですから、気分が悪くなられる方はよくいます。もし、休んでいても治らないようでしたら、スタッフルームまで来てください。あそこに白い看板が見えますか。非常口って書いてあるんですが、中に入ってすぐ右側がスタッフルームです。それでは」
 女性スタッフは慇懃に礼をすると、フロアの向こうに消えていった。気分は悪くなかったが、例の男を見たことによる動揺はまだ治まっていなかった。
 暫くすると俊介がドリンクとチップスのような物を持ってやってきた。
「こんなとこにいたのかよ。探しちゃったよ」
「ゴメン……ちょっと疲れちゃったんだ」
「ま、慣れないうちはそうだろね。あのフロアで踊ってる人たち、あのまんま四五時間は平気だからね。ま、こっちはのんびりいこうよ。とりあえずこれ飲んで」
 香澄はオレンジジュースの入ったコップを受け取り、口に運ぼうとしてから、
「そうだ、さっき例のヤツをまた見かけたんだよ」
「気のせい……」俊介はそう言いかけてから頭を掻いた。「……ってことは無いよな。香澄に限っては」
「うん、間違いないよ。あの前髪と暗い目つき」
「何か分からないけど、気味悪いな。ちょっと俺も探してみようか」
「危険なことはやめて。それにこの人混みじゃ、私じゃないと見つけられないと思う。もし見つけたらすぐに言うから、その後どうするか考えといて」
「OK! わかったよ。それよりちょっと飲んだら……」
 香澄が一旦テーブルに置いたコップを俊介が再び渡そうとした時、香澄がいきなり立ちあがった。テーブルが大きく揺れる。
「あっ……。あそこ……」
「何? ヤツがいた?」
「うん……いや、分からない。人違いかもしれない……」
「それより、大変だよ……」
 俊介が慌てて倒れたコップを起こした。オレンジジュースはテーブル一杯に広がり、香澄のスカートにも垂れている。改めてスカートを広げると、ポタポタとジュースが床に滴り落ちた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み