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文字数 1,276文字

 体育館は大勢の人で埋め尽くされ、試合の熱気と人いきれでむっとした空気に包まれていた。年に一回開かれる、『県空手道大会新人戦』の会場だ。
 鰐十郎たちはそんな会場を抜け出しロビーに出た。ロビーには簡単な机とテーブルがあり、横には自販機が置いてある。場内の熱気を避けて、トイレ休憩がてらここで一息入れていく者も多い。
 試合は団体戦が終わり、ようやく個人戦の半分を消化したところだ。
 鰐十郎は個人戦に出場していた。新人戦の学年制限は高三までで、各流派の新人たちが一堂に会し技を競い合うのだ。
「おまえら惜しかったな……」
 鰐十郎が仲間に言う。五名単位で戦う団体戦で呪流柔術は準優勝だった。優勝したのは天界黒竜空手だ。規模で言えば天と地ほども開きがある。だが、明目市で古くから活動している呪流と明目市に本部がある黒竜は、いい意味でも悪い意味でも互いをライバル視してきたのだ。
 だが、出場枠ギリギリの人数しかいない呪流と、メンバーに選ばれることさえ大変な黒竜ではさすがに個人個人のレベルが違う。それでも決勝まであがってきたのだから、なかなか大した実績といえるだろう。
「俺がもうちょっと頑張れば……」
 青木は悔し涙を流していた。それまでは順調に勝ち星を稼いで来たのだが、先方として出場した決勝では開始僅か数分で鮮やかな上段蹴りを決められ、敗退したのだ。
「いやいや、良くやったよ。結果は結果として受け入れ、それをどう明日からの鍛錬につなげるか、むしろそっちの方が大事だ」
「でも、悔しいス。先輩……先輩ならやってくれると信じてます。先輩、俺たちの敵を討つって、優勝するって約束してください」
「馬鹿いえ。そんなこと約束できるか……」
 そうは言ったものの、かなり自信はあった。これまですべての試合を危なげなく一本勝ちであがってきている。残ったベストエイトの中で、実力は一番だと自負している。ただし、一人気になる男がいた。
「おいおい、こんなところでのんびり作戦会議会かな……」
 見ると、会場から出て来たばかりの一団が近づいてくるところだった。団体戦で優勝した天界黒竜空手のメンバーたちだ。サポート役の大学生も数名加わっている。
「終わってから作成会議するわけないですよね」
 青木がむっとしたように答える。
「なかなか言うじゃないか。空手よりも口で戦った方がいいんじゃないか」
 リーダーらしい大学生が言うと、仲間がどっと笑った。
「今年は残念な結果に終わったけど、来年こそは……」
「おいおい、来年だってよ。果たして来年は道場があるかどうかも分からないのに……そろそろ《溝板(どぶいた)》を張り替えないと、練習中穴ぼこに落っこちちまうぜ」
 青木は飲んでいた缶ジュースをテーブルに叩きつけて立ち上がった。鰐十郎がその肩を抑えて座らせる。
 呪流柔術は貧乏で、道場の板も買えずに《溝板》を貼ってるらしい……。無論、馬鹿げた噂話に過ぎないが、呪流柔術を貶めるためには最も効果的な悪口だ。《溝板》云々は嘘にしても、貧乏なのは事実なので更にたちが悪い。
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