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文字数 1,157文字

 ひどく酔っぱらっているらしく、大声でわめき散らし、吠えるように奇声をあげている。あまりにうるさいので、奥の席にいた若いカップルは早々に店を引き上げることにしたらしい。レジで会計をしていると、顎鬚をたくわえた男が怒鳴った。
「ねえちゃん、ホテルにしけ込むにはまだ時間がちっとばかし早いんじゃねえの――」
 他の二人がどっと笑う。女は男たちをキッと睨みつけたが、男がその腕を引っ張るように出口に向かった。一旦振り返り、
「ご馳走さん。女将さんまた来るよ――」
「兄ちゃん早くやりたくて、もう股間がオッタッチまってるってさ」
 男らがまたゲラゲラと大笑いする。
「ちょっと、あんまり騒がないでくださいな。迷惑ですよ」女将が言う。
「……んだとう。迷惑だ?……誰がいつ迷惑をかけたって?」
 顎鬚が席から立ち上がってカウンターに近づく。目に陰惨な光が浮かんでいる。カウンターの中は大人二人がかろうじて立てるほど狭い。女将が不安そうな目を向けると、顎鬚はいきなり鰐十郎の肩越しに手を伸ばして、女将の胸倉を捕まえようとした。鰐十郎は埃でも払う様にその手を下から軽く跳ね上げた。
「おっ……何だ、コイツ」
男は驚いたように自分の手を見てから、鰐十郎に目を向けた。
「鰐ちゃん駄目だよ。また……」
 女将の声に答えたのは鰐十郎でなく顎鬚の方だ。
「心配すんなよ、こんなモヤシみたいな野郎、俺が本気で相手するわけねえだろう」
「篠村先輩は天界黒竜空手の三段なんだぜ。素人が相手にできるような人間じゃねえから……」
 五分刈りの太っちょが席の方から嘲るように言った。
「そう言うこった。それより、さっきの迷惑云々って話の方のケリをつけようか。あんた、こんな商売やってるからにはモメ事の治め方とかいろいろ知ってんだろう。事と次第によっちゃあ、こっちも悪いようにはしねえ」
 顎鬚は得意そうに顎を撫でていたが、急に笑顔が消え鰐十郎を見おろした。
「小僧、何笑ってやがる……」
「いや、だってそうだろ。『事と次第によっちゃあ悪いようにはしねえ』って、ドラマではよく聞くけど、現実では初めて聞いたぜ。おっさん、学芸会かよ」
 そう言うなり、鰐十郎はすっと頭をかがめた。その頭上をブンと風を切って何かが通り過ぎる。顎鬚の岩のように大きな拳だ。鰐十郎はひょいと頭をあげ、カウンターの上に一本の箸を置いた。
「わりい。箸落としちゃったよ……」それから不思議そうに顎鬚に目を向けた。
「野郎――」顎鬚は何か探るような眼で鰐十郎をみおろした。
「だから、やめて頂戴って言ってるのに……」
 女将の言葉は落とした箸を拾うため頭を引っ込めただけの鰐十郎に向けられているらしい。
「わりぃ。でも今のは俺のせいじゃねえし。それよか、割り箸の代えくんない?」
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