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文字数 1,056文字

「ちょっと歩こうか……」
 香澄が立ち上がると、俊介も同じように立ち上がった。さほど大きい池ではないが、木々に包まれた小径を辿ると、心が洗われるような気がする。
「そろそろ部屋に戻る?」
 一周して元の場所に戻ってから、俊介が訊いた。
 香澄は頷いて、二人は研究室がある棟への道を歩き始めた。街路樹は新緑の綺麗な色に染まっている。周囲には大勢の学生がいる。ベンチに座って本を読んでいる男。街路樹に寄り添い静かに佇んでいる男女。笑いながら通り過ぎて行く女子学生たち、その間を風のようにすり抜けていくスケボー男。
「何か嬉しそうだね。何かいいことあった?」
「いや別に何もないんだけど。こういう日常っていいなって……」
「日常? 普通の大学の構内の景色だろ」
「普通なところがいいんだよ。普通ってなかなか得難いものだと思うから……」
「得難いものなら普通じゃないんじゃないの。ま、どうでもいいか……。それより、今夜までそのテンションを保ってくれると嬉しいんだけどな」
「やだな……大学とクラブでは世界が全く違うでしょ」
「そうだけど、初めてだと何かと緊張するかなと……。クラブに行っても、ここは大学の構内だって自分に暗示をかけるんだよ」
 香澄は素直に頷いた。以前からクラブに誘われていたのだが、ようやく承諾し、今日がその日なのだった。これまでにも居酒屋に行って、そのままホテルに行くようなことは何度かあった。だが、なぜかクラブは敷居が高かった。
 俊介には話してなかったが、いつも居酒屋に行きたがったのは、前のボーイフレンドの影響が大きいのは確かだった。居酒屋で高い吟醸酒を味わっている時、ふと河原でかいだカップ酒の匂いを思い出すことがあった。また、新鮮なイカ刺しを口に運ぶ時、ふと袋から出したスルメの匂いを思い出したりした。そして、それは懐かしさと共に俊介に対する裏切行為かもしれないという後悔の気持ちも生み出した。
 結局、俊介の好きなクラブに行こうと思ったのは、過去にとらわれウジウジとしている自分に嫌気がさしたからだ。
「大丈夫よ。別に怖くないってわかったし……」
「そうそう。麻薬の売人とか人さらいとかいねえから……」
 俊介はそう言って大笑いした。
 香澄のクラブに対するネガティブなイメージはすっかり一掃されていた。それでも俊介以外の誰かの誘いだったら絶対に首を縦に振らなかっただろう。男性に対する不信感は病的な程で、恋人である俊介だけが唯一の例外なのだった。
 その俊介は呑気に鼻歌を歌っている。
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