ヘッドセット動作確認テスト『その後』

文字数 1,501文字

私はこれ以上続けることは時間の無駄であると判断し、通話終了ボタンを押した。
思った以上にショックだった。

「『あなたの声が聞きたかった』って言ったら」
先輩の言葉が頭に響く。
もちろん言うつもりは無いけど、実際話が出来るかもしれないと期待していたのは事実だ。

私はTeams画面を見つめた。
彼はまだオンライン表示だ。

チャットを打ち込む
「雑音しか聞こえなくて、テストにならなかったです。」
ちょっと怒っているように見えるかな。

「こちらからは声は聞こえていたので大丈夫だと思います。」
彼から返事が返ってきた。続けて
「1階の休憩所にいました。」

あそこは人通りも多く、確かにあの雑音も納得かもしれない。
「私はこんなこともあるかもと会議室予約をしていました。」
ああ、これも不機嫌に見えるかな。

しばらく彼は反応しなかった。
画面から目を離した。
今は15時15分。何の時間だったのか。

通知ウィンドウが出た。
彼からだ。
おかしなスタンプが送られてきた。

Teamsには専用の絵文字スタンプがあり、言葉がなくてもスタンプで返信することが出来るのだ。

ジャグリングをする男性??
え?何これ?私は理解不能だった。

「なんなんですかこれ( ;∀;)」

釣られて私も顔文字を書いてしまった。

「すみません、意味はないです。」
「元同僚さんが使っているから使いました。」

(テストがうまくいかなかった暗い雰囲気を和ませようとしているのかな?)

元同僚のお茶目で人懐っこい性格を思い出した。

「確かに、元同僚さんなら使いそうですね。」
私は深く納得し、思わず同意の気持ちを打ち込んだ。

彼は私の発言に笑っている絵文字で応答した。

「!」

私は驚いた。
スタンプはメールでは見ることのない彼の感情が表れている。
その代わり、彼がどのように考えているかの思考は見ることが出来ない。

ジレンマだ…

でもスタンプを使っている彼を想像すると、なんだか可愛らしく思えてくすくす笑ってしまった。

チャットはもう少し続いた。

「~さんは私の中で『文字』になってしまったので、エレベーターの前で再会したときはとても驚いたんですよ。」

本当はお会いできて嬉しかったとか
また会えるとは思ってもみなかったとか
ずっと会いたかったとか…たくさん候補はあった。
でも彼を驚かしたり、警戒させたくないので意思表示は『このくらい』の程度で良いのだ。
悲しいけれど私の本当の気持ちの10分の1も含まれていない。

それであっても彼は私の返信に号泣しているスタンプで反応した。
本当にスタンプ機能は面白い。
「そうですね、まだなんとか生きています。」
彼も反応してくれた。
これは文字の彼ではなく、実体の彼が文字ツールを利用した反応であると私も分かる。

どのよう会話の流れで言ったのかは分からない。何かの弾みで
「~さん、すごいです。さすが王子様ですね。」
と書いたのだ。
「今はそのように呼ばれているのですか?」
彼は驚いたように返事を返した。

私は「いえ、最初からずっとですよ?」
と書いたが、彼からはもう返事は返ってこなかった。

彼は『王子様』というワードを覚えていなかった。(参照:ヘルプデスクは『王子様』? )

私は彼と出会って最初の方で彼自身に「王子様みたいですね」と感想を伝えていた。

今回のチャットで彼が「王子様」というワードをそのものを忘れてしまっていることがわかり、私は『思い出の彼』を共有できなくなった。
思い出自体が消えてしまったかのような感覚に陥り、私は少し悲しくなった。

チャットが楽しかっただけに、複雑な気持ちだった。
15時45分だ。
彼も反応しないし、もう出よう。
私は片付けをして会議室から出ていった。

(先輩になんて報告しようかなあ…)
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登場人物紹介

私:30代後半の女性

昔は綺麗だった。見た感じさほど変わりはないが、今は自分の加齢に悩んでいる。

年上が好みだったが、これから好きになるある男性は年が下かもしれないので落ち着かない。

実体の彼:年令不詳だがおそらく私より年下

優しい、誠実な仕事ぶりの中途入社社員。

こちらから話しかけない限り、ほとんど話さない静かな性格。

私は彼がどの程度年下なのかが分からず落ち着かない。

あるきっかけで私と長い期間社内メールでのみ個人宛てでやりとりをする関係になる。

その後再会した彼は、今まで私が知る彼とは言動、行動が違っていて私は受け入れられず混乱している。

理想の彼:理想化した彼

実体の彼に出来ないことは全てしてくれるが私はだんだん違和感と不安が膨れ上がっていく。

思い出の彼:私の思い出の中にいる彼。

数種類のエピソードを持っており、時が経つごとに輝きが増す。

誰にも共有することが出来ず、なんなら実体の彼すら忘れているエピソードもある。

文字の彼:私と一番長く過ごしてきた彼。

私は再会するまで彼の顔は思い出せず、『文字の彼』として受け入れていた。

私のトラブルをいつも気にかけ、いつでもすぐにメールで助けてくれる安心感のある彼。

彼のただ一つの謎はこんなに優しいのに『感情』が入った文章には一切反応をしないこと。

自称イケメン(ただし本当にイケメンです。)の先輩。

自分に自信があり、仕事も顔も自分が一番だと思っている。

ただ、既婚者なのに女の子をひっかけているところはクズである。

私にはないものばかりで、『ある意味』あこがれの先輩。

『彼』への想いの相談相手になってもらったが…

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