第31話 プリンスエドワード島(2031年)

文字数 1,513文字

(智子が、プリンスエドワード島を回想する)


ライラックの花が、風をうけて揺れている。遠くに、SLの煙が見え、汽車はみるみるうちに近づいてきた。少女が客車の窓から顔を出して、こちらに向かって、何か叫んでいる。ケンジントン駅に音を立ててSLが停車した。客車のドアが開いた。中から、誰かが降りてくる。ああ、あれは、さっきの少女だ。そこには、赤毛のアンがいて、こちらを向いて微笑んでいた。

ここは、プリンスエドワード島のケンジントン駅だ。アンは、この駅の中に、そして、プリンスエドワード島のあちこちにいる。そう、これは、夢ではない。バーチャル・リアリティだった。

6月は、ジューン・ブライドと呼ばれるように、花の季節だ。冬の寒さの厳しいプリンスエドワード島は、いつにもまして、6月には、島中の花が一斉に咲き乱れる。智子は、夫と、観光に来ていた。バーチャルの技術は進歩したが、まだ、花の香りを再現できていない。島の中には、バスと自動車しか、交通手段はない。今回は、レンタカーを使うことにした。レンタカーを借りに行くと、いつになく、時間をかけて、丁寧に、自動車の使い方を説明してくれた。何でも、島には、信号機を撤去した交差点が多いので、その場合には、フロントパネルにあるバーチャル信号機を使う必要があるという。プリンスエドワード島は、冬になると厳しいブリザードに見舞われることがある。この時に、信号機が壊れると、修理もままならない。このために、交差点には、信号機が2つずつ付けられていた。どちらかが故障しても残りが機能するという発想だ。州政府は、維持管理費を節減するために、リアルな信号機を廃止して、バーチャル信号機に切り替えることにした。プリンスエドワード島を走る車両は、バーチャル信号機、つまり、信号機の信号を受信して、フロントパネルにあるバーチャル信号画面に表示する装置の設置が義務づけられた。これは、ずいぶん前の話だ。しかし、この信号機問題の解決がきっかけになって、プリンスエドワード島は、バーチャル技術の実用化のパイロットエリアになった。プリンスエドワード島のマスコットが、赤毛のアンであったことも、バーチャル利用に弾みをつけた。今では、新しいバーチャル技術が開発されると、こぞって、一番最初に、プリンスエドワード島に売り込みにくるようになった。

自動運転車両が普及するにつれて、信号機は、手動運転をする人の見るバーチャル信号機だけになりつつある。考えてみれば、信号機は、交通巡査の手信号を、記号化したものに過ぎないのだから、バーチャルと相性が良いのは当たり前だ。

智子は、今回は、風景を見ながらドライブを楽しみたいので、一部は、手動運転をするつもりだ。そこで、バーチャル信号機の説明を熱心に聞いた。プリンスエドワード島は、バーチャル化が進んでいるので、10分の1ツアーでも人気のスポットで、智子は数回、バーチャルツアーで訪れているので、すでに、道路は、熟知している。しかし、バーチャルツアーの交通事故では、リアルの被害は出ないが、リアルツアーでは、交通事故はけがにつながる。このため、バーチャルツアーとリアルツアーを混在させないことが重要だ。バーチャル信号機の説明は、この混乱を避けるために、バーチャルツアーに掲載することが禁止されていた。つまり、バーチャル信号機関係の説明だけは、実際の自動車とセットで行うことになっていた。その後、智子は、ドライビングシミュレータで、バーチャル信号機の取り扱いを復習して、確実にした。このあたりの仕組みは、5年ほど前に、バーチャル・リアル・ボーダー・ガイドライン(BRBG)ができて、整理されていた。

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