第28話 選挙(2032年)

文字数 3,876文字

(智子が、選挙の時を回想する)

自動車会社を辞めた後、智子は、しばらく、レイオフされた人を支援するNPOで働いていた。NPOは、働く人に、生活が成りたつ賃金を、支払っていた。こうした資金は、主に、寄付金で、成り立っていた。智子は、NPOの仕事を始めて、半年くらいで、NPOの活動のポイントは、寄付金集めだと気づき、企業を回って、寄付金集めに奔走した。それから、政府の助成金の増加も検討した。しかし、政府は、財政悪化に伴い、助成金の減額に踏み切っていた。

智子の政治活動のスタートは、地方議会だった。地方議会は、寄付金集めの延長線だった。寄付金集めに走り回った結果、いっそのこと、立候補してみたら応援しますという人や地方企業が出てきた。

2020年頃の日本の選挙は、今から考えると、想像できないような時代遅れのシステムだった。

ドイツでは、2002年から、連邦政治教育センターがヴァールオーマット(Wahl-O-Mat)を運営していた。在日本ドイツ大使館は、これを、「自動選挙機」と日本語に訳した。ヴァールオーマットは、有権者と政党の見解の一致度を測るボートマッチ・サイトで、ユーザーが様々なテーマに関する38の政策方針にイエスノー形式で答えていくと、最後に自分と各政党の回答がどれくらい一致しているかを、ランキング形式で見ることができるシステムだった。

例えば、2017年8月30日にスタートし、32の政党が参加した選挙の状況をドイツ大使館は、次のように、報告していた。

「初日午前中だけで閲覧数が380万の人気があります。
ヴァールオーマットを使ってよかった点は?という質問には、

楽しいからが、85%、
各政党の違いがはっきりしたが、61%

などの答えがあり、選挙前の、国民的娯楽です。
ヴァールオーマットは、各政党にアンケートを送り、そこから個々のポジションを明確にできる38個の政策方針を選び出す、しっかりとした裏付けと準備を経て作られているこのサイトです」

このように、2020年頃には、ドイツでは、選挙カーは、ヴァールオーマットにとって代わって、なくなっていた。オランダなどのEUの国も似たような状況だった。

2020年頃の日本の政治は、当選してから、派閥のパワーバランスで、政策を決めるという、今では、考えられないような時代遅れのシステムを採用していた。

しかし、日本もドイツに遅れること30年で、2025年頃から、日本版ヴァールオーマットがスタートして、2030年頃には、選挙カーはなくなっていた。

各政党は、当選してから政策を決めるのではなく、事前に、政策を明示する必要に迫られた。その結果、寄り合い所帯で、分裂した政策を抱えていた与党は、日本版ヴァールオーマットのアンケートに耐えられず、空中分解して、複数の政党にわかれた。

日本版ヴァールオーマットは、各政党の前回の公約の実現度の評価結果も整理している。これは、野党の場合には、実現できた公約が少ないことはやむをえないが、与党の場合には、過去の実績評価につながった。あまりに、このスコアが低い政党は、与党を続けることが、困難になっていった。
つまり、大風呂敷の公約を掲げることは、自縄自縛(じじょうじばく)でマイナスになった。その結果、各政党は、短期間に実現可能な公約と、長期ビジョンに基づく、ロングスパンの公約を分けて提示するようになった。

ロングスパンの公約は、ビジョンと言い換えても良いかもしれない。温暖化対策、エネルギー、少子化、地方の活性化問題などは、すぐに解決できる問題ではないが、ビジョンがなければ、問題解決は前に進まない。ところが、2020年頃までの日本では、ビジョンはなく、補助金をばらまく政策が横行していた。日本版ヴァールオーマットは、ビジョンのない政党を、白日の元にさらした。

その結果、2020年頃までのように、ビジョンのない政党が選挙に勝つことは覚束(おぼつか)なくなった。

選挙に出ることの最大の課題は、しっかりしたビジョンと短期に実現可能な公約を組み立てることだった。

智子は地方でも、顔が売れている訳ではない。その点では、一昔前であったならば、選挙に出ても、票を得ることは不可能だった。

しかし、日本版ヴァールオーマットは、政治の世界を変えた。選挙に出る一番のハードルは、仲間と政党を作って、有権者が納得できるビジョンと公約をつくれるかだった。

NPOの活動を通じて、養った人脈が、大きく役立った。NPOを支援してくれる実業家、大学の研究者、市民活動家、こうした人たちとの話し合いの中で、ビジョンと公約が磨かれていった。

NPOの活動は、失業した人の再就職を斡旋することである。

2030年の失業と2020年頃の失業は全く異質である。

2020年には、同じ仕事をしても、正規社員と非正規社員の間に、賃金格差があった。また、男女間の賃金格差もあった。ようするに、50年前と基本的には何も変わっていなかった。

男女平等といった企業の理念は提示されていたが、それは建前であって、理念は、実際の行動規範に結びつくことはなかった。

2022年に、企業の不祥事が相次いだ。しかも、不祥事を起こした企業の理念は、立派だった。

いくつかの予兆はあった。2019年頃から、プライベートジェットの飛行記録を追跡しているマニアが出てきた。

2022年には、東証は、企業ガバナンスの改善を目指した改革を行ったが、十分な成果を上げられず評判が悪かった。

2022年にロシアのウクライナ侵攻に伴い、ロシアに対する宥和政策が打ち切られ、企業は、企業理念に従った対応を求められたが、海外から、ダブルスタンダードを指摘される日本企業が続出した。

2023年に、コンプライアンス・ウォッチというサイトがボランティアによって、立ち上げられた。これは、企業理念の実施状況を監視するサイトである。このサイトは、企業理念の実施状況をチェックして点数化して公開している。普通に考えれば、このような活動は、フェイクであるとか、営業妨害であると言った批判を受ける。しかし、このサイトが、ターゲットにしている企業は、リコールを起こしたり、行政指導を受けた企業を対象にしていた。その場合には、サイトがフェイクだと反論しても、信頼されず逆効果になることは目に見えていたので、対象となった企業は、反論しなかった。

もちろん、必要な情報が公開されていることは少ない。そうした場合には、サイトは、企業に質問状を送付して、その対応も公開している。

こうした地道な対応の結果、企業のコンプライアンスは、建前だけでなく、実質的な拘束力を持つものに変化した。

2030年の失業と再就職が大きく変化した要因の一つは、実効性のあるコンプライアンスだが、もう一つは、ジョブ型雇用の進展である。年功型雇用に無理がきて、解雇される人が増えて、ジョブマーケットが形成されつつあった。ジョブマーケットができてくると、自己都合で退職することは、給与の増加を意味する。つまり、再就職が、薔薇色の未来につながる可能性が出てくる。もちろん、そのためには、高い給与を貰えるようなスキルを身につけることが必要であるが、低い給与のまま解雇されないよりも、自己都合で退職して、スキルを身につける方が、経済的に合理的な場合が出てくる。

智子の政治活動の中心は、再就職支援であったが、それは、スキルを身につけるための助成というツールを得ることで、所得の向上を実現する政治活動となり、広い支持層を得ることができるようになった。従来であれば、スキルを身につけるには、大学などの学校に行く必要があり、それには、時間と費用が必要であったが、オンライン教育やリモート学習を組み合わせることで、時間と費用の制約を緩和した。

ここでの学習は、資格を取るといったラベリング効果を目的としていない。つまり、学校の卒業認定とは関係がない。教育素材は、世界中から得られる。講師と受講生は、世界中の人に開かれている。大切なことは、人とのネットワークである。学習システムは、ジョブマーケットに強くつながっていて、現職の企業幹部が行う講義や討論も含まれている。企業幹部は、学習システムを通じて、有能な人材の発掘ができた。このメリットがあるので、著名な経営者が、手弁当で講義や討論を行うことも多かった。

学習システムは、クラスと呼ばれる複数のグループから形成されている。クラスには、グレードがあり、良い成績をおさめれば、よりグレードの高いクラスに移動できる。グレードの高いクラスで学習できれば、良い高いスキルが身につけられるだけでなく、高い給与を得る可能性も高くなる。企業幹部は、高いグレードのクラスに講師として参加できれば、ヘッドハンティングができる。こうして、この学習システムは、グレードの低いクラスの受講料より、グレードの高いクラスの受講料が安くなっている。また、同じクラスで学習しても、生徒の寄与度によって、受講料のキャッシュバックがある。

智子は、再就職支援の必要性から、この学習システムの立ち上げに、関わってきた。読者は、既にお気づきであろうが、この学習システムは、世界規模で動いている。智子は、再就職支援のボランティアからスタートしたが、気がついたら、世界中の人材教育の専門家のネットワークの一員になっていた。智子は、世界的な人材教育の専門家として、政治活動をしていた。

こうして、地方議会の議員をスタートにして、智子は政治活動の場を広げていった。

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