ブドウ
文字数 674文字
叔父の書斎を訪ねることは好きだ。そこには鉢植えの、とても小さな葡萄の木がある。亡くなった叔父が大切にしていたそれを、書斎のフランス窓を開けて露台に据えたテーブルに置く。わたしは椅子に腰掛けて待つ。晴れた空から届く風が心地よい。そのうちに軽い足音が近づいてくる。露台に幼い男の子の姿が現れる。彼は葡萄の木にお話をひとつ持ってきたのだ。つかえながら、時にはもどってやり直しながら、夢中で男の子は葡萄に物語る。彼にわたしの姿は見えていないらしい。たぶんテーブルと鉢植えの葡萄だけが見えているのではなかろうか。わたしも自分が日差しの光にふわふわと漂っているような気分になって物語を聴く。男の子が語り終え、期待する目で葡萄の木を見つめる。すると葡萄の木に実が一房だけ現れる。そして、ほらどうぞ、という感じにふるりと揺れるのだ。男の子はその一房をもぎ取り、さっそく実をひとつ口に入れる。彼の唇が左右に大きく引っぱられて笑顔となる。彼が去っていく足音と重なるように次の子が近づく足音が聞こえる……。こんなふうに、入れ替わりながら次々に子どもたちが、小さな葡萄の木に小さなお話を聞かせにやってくる。いろんな服装、いろんな顔立ち、いろんな言葉。わたしは次第にまどろみの中に溶けていく。わたしに最近起こった悲しいこと、ずいぶん前の出来事なのにいまだにわたしの心を乱暴に握り締めるような記憶、すべて子どもたちがお話にして甘い葡萄の粒に変えてくれればいいのにとぼんやり思う。ふと目を覚ますと、すでに陽が落ちかけていた。わたしは鉢植えを叔父の書斎にそっと戻し、窓を閉める。
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