アレワドコ

文字数 1,570文字


 お酒を呑んでやわらかな闇に身を浸すように眠り、目覚めかけたころ、起きようと思えば起きられるけれどももう少し目を閉じていたい、そんな時間に、ふとある場所の風景が見えた。
 郊外の広い野で、背の高い杉を伴った家が点在するほかは畑ばかり、青空の下で風がびゅうびゅうと音を立てて通りすぎていくが寂しくはない。そのなかに、昔土豪の居館だか小さな平城だかがあった場所があって、堀も土塁もろくに残っていないが、ひと回りするとなんとなく形がわかる。長細く畑が並ぶところはかつて堀であったのだろう、低木の植込みが囲む空き地は郭があった区域だろうと想像する。空き地の隅に赤い不恰好なゴムボールがひとつ転がっている。ひとの生活とつながっている証はそこかしこにあるのに、誰の姿も見あたらない。ただ風が吹いている。
 目を閉じたまま、そうそうここは何があるわけでもないのになんだかおもしろいんだよね、行く先を決めずに散歩したときに偶然見つけたんだっけ、天気がいい時にまた行ってみようかな。そんなふうにぼんやり考えて、あれ、と不思議な気分になる。あの場所ってどこにあるの? 近くの駅から散歩のつもりでぶらぶらと歩いたらたどり着いたのだけれど、大都会のすぐそばにあんな広々とした野があるだろうか。それに、何という名の駅からどの方角にむかって歩いたのだろう。まったく思いだせない。
 野に至るまで通った街並の様子はおぼえている。ドアのそばに植木を置いてある喫茶店、看板の文字が薄れた小さな電器店、学校の制服を着せたトルソーが見える衣料品店、ひとを見かけない商店街……。街路樹がつくる陰のせいでやけに暗いアスファルトの道を、呑気にてくてくと歩んでいるうちに、あの広い野に出たので、おどろいたのだった。
 帰り道も、もと来た道を戻るだけのつもりが見知らぬ住宅地で迷うはめになった。まっすぐだけれど短い道路がやけにほかの道と交差してお互いの行く手をさえぎっている。電車の線路があった方向に自分が進んでいることはわかるので、あわてはしなかった。でもさすがに疲れたし夕暮れてくるしで歩くことがいやになってきた。
 こんなに遠かっただろうかと思うほど歩いたすえに、知らない名前の駅にたどり着き、そこから電車で帰ってきた。電車賃の金額や車内の臭まで思いだせるけれども、何という鉄道路線だったかわからない。
 はたと思いあたった。まざまざしい映像の記憶があるので実際に体験したつもりでいたあの日の出来事は、みな夢で見たことだったのか。そもそもふだんはあの場所のことなどまったく忘れているのに、どこから現れてわたしのなかで現実のふりをしたのだろう。ほかにも自分のことのように思いだせるけれど自分が体験したわけではない記憶があるかもしれないと、まどろみのなかでさぐってみると、本当にいくつか見つかった。なじみ深く感じていたのにそこが何度も夢で見たにすぎない場所だったと知りさえした。
 思うに、どうも夢のなかであちらこちらへ行って夢のなかでそれらを思いだすわたしと、現実で毎日同じようなことをくり返してため息をつくわたしとがいて、それぞれが別の体験を記憶しているらしい。同じ心を共有しているけれども、皮一枚をへだてた別の世で暮らしている他人どうしだ。それが、目を閉じているけれども目ざめているような時間に、境があいまいになるのか、無邪気な魚が迷いこむように、たまにあちらのわたしの記憶がこちらに入ってくるのだ。
 ああ、それはいけないと、わたしは薄く目をあけて思う。わたしからあちらへ迷いこむ記憶は、彼女にしばしばため息をつかせているだろうから。
 ごめんなさい、これからはもう少し生きのいい記憶が行くようにしますからゆるしてね、と思いながらわたしは目を閉じて二度寝の闇にもぐっていく。まだ酔いが残っている。


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