キズ

文字数 772文字


 わたしが自分では気にしていない疵を、導師はやけに指摘して、わたしを欠け損じた物あつかいするのである。わたしは次第に導師を憎むようになった。ある時決意して湖上での舟遊びに誘った。導師はわたしの計略など見通しているふうで、小馬鹿にした笑みを顔に浮かべながら舟に乗る。櫓を漕ぐわたしに導師は小さな背を向けているのだが、いざ落とそうとすると勇気が出ない。ふんと鼻で笑われた。腹が立ち導師を蹴とばそうとした時、舟が陰った。見あげると真っ赤な大鳥が来たのであった。鳥は導師をつかむと空に舞い上がった。そして導師の座っていた場所から、穴も開いていないのに水が湧きだした。わたしは慌て、手で水を搔き出す。空から導師の声が降ってくる。舟は器なり。大湖を進む意欲があろうと疵から水が入ればあっけなく沈む。そんな舟に物を載せてもむだである。お前の顔を一目見た時から、もうどうしようもないと思っていたよ、さらばだ。そんなことがあるか、とわたしは憤慨した。わたしの喜捨であなたは酒を呑み女遊びもできたのではないか、その大鳥もわたしのカネで買い、世話をさせたものだろう。そもそも人伝にわたしに弟子にならないかと持ちかけたのはあなたであった、わたし自身に用はなかったと言うのか。舟が沈んでいくのをもはや止められそうにない、せめて龍に変じてあの大鳥ごと導師を噛み砕いてやりたい。強く強く願ったが、先に沈んだわたしの影でさえ、水中からわたしを見上げて嘲笑うようであった。わたしは自分が疵の有無にかかわらず何の力も備わっていない憐れな存在だと思い知った……。だがそれは別に悪ではないとも思った。わたしは悟ったのである。舟が沈みきる一瞬、わたしは一つの小波になった。こんにち、わたしは存分に自らに青空を映し、清風が触れると湖上を滑って遊ぶ。導師の乗る新しい小舟のそばを通りながら。


ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み