マク

文字数 1,043文字


 眠れないので真夜中に犬を連れて散歩に出かけた。しばらく歩いたところに空き地があり、丸椅子が三十ばかり並んでいた。何の建物があった跡なのか思いだせない。木の柱を立てて綱で結び、白い幕を張ってある。そこに古い映画……チャンバラ映画が映し出されている。映写機は見当たらず、音声も流れていない。見物客もおらず、夜のしじまにモノクロームの映像だけが、川面がうねるように現れて移ろう。不思議な気持ちがして、わたしは椅子のひとつに腰掛ける。犬は伏せて目を閉じてしまった。幕のなかでは襷掛けをした大勢の捕手(とりて)が一人の人間を囲み追い詰めようとしていた。包囲されている者はどうやら世のなかから外れた風貌の武士で、顔に毒虫のような化粧を施している。彼は刀を振りまわし捕手を次々に斬り倒すのだが、あとからあとから人間が湧いて囲みに加わるので際限がない。髪を振り乱し大きく肩で息をし、疲れきった様子だ。風が吹いた。わたしは小さなくしゃみをした。幕のなかの毒虫と目が合った。次の瞬間、わたしは大勢の男たちに囲まれていた。殺気ばしり、わたしをにらみつけている。わたしは手に血のついた刀を持っていた。驚いて捨てようとしたが手が開かず、刀も接着剤で固定されたように離れない。剣先を見ると先ほどの広場の情景が見えた。見知らぬ人がぐったりと疲れた姿勢で椅子に座り、犬のリードを手に持ってこちらを見ていた。顔に苦笑を浮かべ、片手を立てて前に上げると、ちょいと頭を下げるしぐさをした。わたしが固まっているので、捕手たちがじりじりと輪を狭めてきた。わたしは人違いだと言いたかったが声が出ない。顔に触れると手にべっとりと塗料が付いた。ぶ厚い化粧のせいで人間が変わったことに気づかないのか、追えればだれでもよいのか。幕のむこうはもう見えなくなっていた。朝まで逃げきれたらきっと元にもどれる、そう信じてわたしは走り出した。だがこの世界の空は灰色にどんよりと曇っている。いつ、どのようにして新しい朝が来るのだろう。わたしは闇雲に刀を振り回した。捕手たちは奇妙なほど簡単に逃げ道を空けた。彼らはわたしを殺したり捕らえたりするのではなく追うのが仕事なのだとわかった。わたしは逃げた。捕手はどこにでもいた。わたしは飛んだり体を透明にしてまで逃げ続けた。だが高くは飛べず、透けた体も必ず見つけられた。捕手たちは一定時間でちゃんと交代しているようだ。仕事なので当たり前か。対してこちらは一人だけ。結局わたしが逃げきれたのかどうか、わたしは知らない。


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