蝉丸ヶ庵は灯火暗く【第六話】

文字数 1,345文字





 あの独房の中を覗いていたとき、僕の身体は独房の中を、ガラス越しに観ていたような感じだった。
 離人症。
 あの場所に僕はいて、同時に僕はあの場所にはいなかった。
 そんなの僕に都合がいいだけのファンタジーだ。
 でも、春葉が脱走したあと、僕は多くを語れなかったし、見たすべては病気が起こした幻想だった、と医療スタッフは口を揃えて、言った。
 医者は春葉のことに話が及んだ時、
「あの淫乱殺人鬼め。スタッフを誘惑していたんだ、クソがッ」
 と、舌打ちをした。
 その言葉で、病院側がどういう態度なのかわかったし、それに彼女は殺人鬼であることに変わりはなかった。
 変わりのありようはずがなかった。
 医療スタッフが春葉を辱めたのは、僕の抑圧された性衝動が見せた幻想だった、というのが病院の公式見解だった。
 つまり、僕の意見は無視されたのだ。
 春葉に舌で舐められた手首の傷が疼くのを、僕は感じた。


 僕は朝早く、警備会社に来ていた。
 警備会社は上高井戸のマンションの数室を間借りしていて、経営している。
 会社の一室では、テレビに据え置きのゲーム機を置いて、ミュージシャンの柵山とバスケットマンの足利がレーシングゲームをしていた。
「待ってたぜ、るるせっち」
 アクセサリーをじゃらじゃらさせながら、柵山朔太郎が言った。
「なに? 今日はるるせっちと仕事なん? 柵山」
 赤い髪を坊主にしている足利葦人が尋ねる。
「そうなんよ、足利。今日は件の〈世田谷流通センター〉でお仕事。片交だぜ、だりぃ」
 片交、とは片側交互通行のことだ。一時的に道路を一車線にする仕事だ。
 柵山があくびをかみ殺す。
「道路舗装の警備。こりゃ夜までかかるぜ」
「へぇ。おれは今日は待機だ」
「んじゃ、家に帰れよ、足利」
「ここが住みよくてさ」
 二人は笑いあう。
「じゃ、僕は着替えるよ」
 僕は奥の部屋のふすまを開ける。
 すると、いつも通り魚取さんが着替えていて、パンチを頬に食らった。
 ふすまを、僕は黙って閉じた。
 魚取さんの今日の下着は黒だった。

「ここで着替えればいいものを」
 足利が言う。
「そうだね。……痛い」
 僕は自分の頬をさすった。
「最近は女性の権利とかさ、うるさいから気を付けたほうがいいぜ、るるせっち」
「うん」
「いつも下着姿を見られているのに、そんな奴の同人誌を買ってくれる魚取さんには感謝しろよ、るるせっち」
「そうだね」

「昨日は国分寺で殺人事件が起きたみたいだぜ。その前はどこだっけ」
 柵山が言うと、
「国立だな」
 と、足利が返す。
 柵山は、
「気をつけなきゃな、おれたちも。通り魔的犯行だっつってるけど、あきらかに衝動的殺人ではないだろ」
 と、注意を促す。が、気を付けなきゃって、どうしろと言うのだろうか。


「さて、と。んじゃ、行きますか、現場へ」
 柵山がゲームの電源を落として腰をあげると、ふすまの奥から魚取漁子さんが出てきた。
「なかなかだったぞ、るるせ少年。あの同人誌。売れなくて残念だったな。だが、今度着替えを覗いたらぶち殺す」
 同人誌を買って読んでくれてありがとう、と僕は言って、柵山と世田谷流通センターへと向かう。


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登場人物紹介

蘆屋アシェラ

   蘆屋探偵事務所の探偵であり、陰陽師。

成瀬川るるせ

   警備員。

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