鵺の鳴く夜に蜘蛛の網目【第五話】

文字数 1,925文字





「一雨、来そうだね」
 狩衣(かりぎぬ)を身にまとったアシェラさんが、タクシーの後部座席で隣に座る僕に、そう言った。
「天気、変わりやすい季節ですもんね」
 アシェラさんは狩衣だけど、僕はポロシャツにハーフパンツという姿だった。
 バックミラー越しに、助手席にいる長久保がこっちを睨みつけている。
 それもそうなのである。
 僕も気づいたし、長久保も気づいたのである。

 狂林総合病院。それは、僕が失読症に罹って入院していた場所である。
 僕が、白梅春葉は被害者だったと主張したのに、それを一笑に付した、その張本人が長久保金光院長なのである。

「着いたようだね」
 タクシーが止まる。
 大きな総合病院の、玄関口ともいうべき、大きなロータリーに。
 タクシーから外に出ると、雨がパラパラ降ってきていた。
 空を見上げる。
 暗雲だ。これは、大雨になるな、と僕は思った。

 タクシーに金を払って降りた長久保が、僕らに言う。
「貴様らに貸す宿など、この病院にはない。泊めてもらおうなどと思わず、この怪異事件を今夜中に解決してみせろ」
 アシェラさんは僕に話を振る。
「泊まろうにも、憂いに心休まる暇もないだろう、ねぇ? るるせくん?」
「え? あ? あぁ、いや、その、はい。焦りが募りますね!」
 長久保は鼻で笑う。
「フンッ! 貴様らは、解決だけ、すればいい。わしの心が休まるようになれば、それだけでいいのだ。そこの〈元・失読症患者〉のしんちゅうなぞ、どうでもいい」
 皮肉か。
 僕はうんざりする。

 そして、長久保のあとを、僕らは歩く。
 院内に入ると、さすがに狩衣という陰陽師ルックスのアシェラさんは、目立つや目立つ。
 医療スタッフたちの注目の的になっている。
 だが、アシェラさん本人はそ知らぬふりで、すたすたと草履で歩いていく。
 だいたい、その病院の院長に連れられて歩いているだけで目立つというものだ。
 ラフな普段着の僕も、それなりに目立っているようだった。

 病院の離れ。地階。
 長い長い渡り廊下を歩く。
 すると、見えてきたのは、僕も入院していたことがあった、あの〈隔離病棟〉だった。

 外界から隔離されている、そこは正真正銘〈かくりよ〉なのだ。
 それが、〈隔離病棟〉。
 二重ロックになっている重い扉を、医療スタッフに開けてもらい、入る。
 中にも扉があり、そこを抜けると、ナースステーションになっている。
 ナースステーションでさらに格子の嵌った扉のカギを開けてもらう。
 がちゃり、と音がしてロックが解除されたその先は、臭気が漂う、病棟の廊下だった。


「懐かしいか? 〈元・失読症患者〉くん?」
 バカにしている、この長久保という男。
 僕は歯を食いしばって、拳を握り締めて、暴発するのを我慢した。
 今にもこの禿頭のでっぷりした男を、僕は殴ってしまいそうだったのだ。

 アシェラさんは僕に言う。
「地獄はこれからだよ、るるせくん。我慢だ」
「…………」
 僕は黙るしかなかった。


 …………。
 ……。

 …………廊下の奥まったところに、格子があって、それ以上先に行けない場所があった。
 そこには近寄るな、と入院患者は、みな、言う。
 その奥には、鬼が住んでいる、というのだ。
 それは人間を喰らう青鬼で、懲役の年数は100年以上になっているが、隔離病棟で今は治療を受けている、という…………。

 …………。
 ……。


 あの〈格子の中〉。
 僕らは今、あの〈格子の中〉へと、向かっている。


 ……院長の手によって、格子の南京錠が外された。


 格子の中に入る。
 廊下を進むと、その壁には、ぎっしりとなにか文字が書かれていた。
 僕が入院していたとき、文字化けした記号だと思っていたものが、廊下の奥まで続いている。
 落書きだろう、と思った。
 だが、それは違った。
 呪術的ななにか、だ。

「なるほどね。るるせくん。『耳なし芳一』にも出てくるだろう。ありがたいお経さ。それが書きつけてある」
 アシェラさんはそれから小さく、
「笑えるね」
 と、僕に囁いた。

 僕はその墨書された文字に眩暈を起こしながら、先へ先へと暗い廊下を進んだ。

 そして、たどり着いたのは、あの日見た〈独房〉だった。
 独房の中には、両手を縄で縛られ、天井からその縄を固定されている、患者服の……フランス人形のような顔をした女の子がいた。

 フランス人形のような彼女は。

「…………は、春葉、…………なのか?」
「な。笑えるだろ。なにがお経だよ」
 僕は呻きを漏らしてしまった。


ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

蘆屋アシェラ

   蘆屋探偵事務所の探偵であり、陰陽師。

成瀬川るるせ

   警備員。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み