斬鬼鍾馗の繭【第一話】

文字数 2,723文字

 僕、成瀬川るるせはスマートフォンで友人の事務所に電話をかけた。
 するとその友人は眠そうな声で電話に出て、僕にこう言った。
「なんだい、るるせくん。まだ午前の11時だよ。早朝と言ってもいい時間帯じゃないか。僕は昨日の夜、猫動画を観るのに忙しかったんだ。眠いのだよ。くだらない電話ならやめたまえ。電話、切るよ?」

 ガチャ。ツー、ツー。

 受話器を置いたらしい。電話は見事に切られた。

 いや、まあ、そう言うだろうことは予測済みだったので、なんとも思わないはずが、ちょっと寂しい気持ちになっている自分に気づく。
 僕は杉並区高井戸の、ホームセンターであるオリンピック高井戸店で途方に暮れた。
 昨日、蘆屋探偵事務所の事務用備品がだいぶ切れたから買いに行ってくれと言われたから、わざわざ警備員のバイトを休んでオリンピックまで来たのに。
 ひどいや、アシェラさん。しかも、どう考えてもドンキの方が近いのに、わざわざこっちまで来たんだぞ。
 許すまじ、アシェラさん!
 こうなったら高井戸温泉に入ってから事務所に寄ろう。
 そう決意し、僕はショッピングカートを押して、店内を歩く。
 いやー、ここ、いろんな物が置いてあるんだな、なんて思いながら、カートをごろごろ押す。
 そしてトイレットペーパーから光沢紙まで一通りカートに詰めてレジに行き、お金を払って領収書をもらう。

 店を出て、歩いて高井戸地域区民センターまで行く。区民センターのベンチで一休みして、僕は空を見上げた。
 暖かい。神田川の周辺には、桜が咲いている時期だ。そりゃ暖かい。
 空は雲一つなく、東京名物の鴉が空を飛んでいるのが見える。
 何匹も飛んでいる鴉だが、そのうちの一羽が、僕の座るベンチの前で降り立った。

「あ。脚が三本ある……」
 そんなバカな。鴉じゃなくても、鳥の脚は二本と相場が決まっているじゃないか。
 三本はないだろう。僕はスマホのカメラで三本脚の鴉の撮影をしようとした。
 だが、鴉は、それを察知したかのごとく、すぐに飛び去っていってしまったのであった。
「…………」
 僕は、再び、探偵である友人、アシェラさんの事務所に電話をかけた。


「もしもし! アシェラさん?」
「今度はなんだい、るるせくん」
「あ、あの」
「何度も言うように、僕は猫動画を観るので忙しいのだよ」
「三本脚の鴉って、存在しますか?」
「なんだい? とんちクイズとでも洒落込もうということかい?」
「いや、そうじゃなくて、今、三本脚の鴉を目撃したんですよ!」
「きっと枯葉剤かなんかでそうなってしまったのだろうね」
「ブラックジョークはやめてください! そうじゃなくて」
「三本脚の鴉、ねぇ。まるで『白い鴉は存在するか』みたいな口ぶりじゃないか」
「白い鴉? なんです、それ」
「ヘンペルの鴉、という対偶論法だよ。現実には証明不可能だが、論理学的には論法は正しいという、変わったパラドクスさ。パラドクスじゃない、という意見もある」
「言ってる意味がわかりませんが」
「不勉強だねぇ、るるせくん。職務怠慢だよ」
「だから僕は所員じゃないですってば」


「ヘンペルの鴉。『AならばBである』という命題の真偽は、その対偶『BでないものはAでない』の真偽と必ず同値となる。
全称命題『全ての鴉は黒い』という命題はその対偶『全ての黒くないものは鴉でない』と同値であるので、これを証明すれば良い。
そして『全ての黒くないものは鴉でない』という命題は、世界中の黒くないものを順に調べ、それらの中に一つも鴉がないことをチェックすれば証明することができる。
つまり、鴉を一羽も調べること無く、それが事実に合致することを証明できるのである。
これは日常的な感覚からすれば奇妙にも見える
こうした、一見素朴な直観に反する論法の存在を示したのが『ヘンペルの鴉』さ」

「言ってる意味がさっぱりです」

「いいかい。ある命題について、それが真であることを確かめるには個々の事例を全て調べ尽くすことができればいい。
命題の正しさの信頼度合は、調べた事例の全事例に対する比率に一致する。これを確証性の原理と言う。
しかし『黒くないものは鴉ではない』という命題の真偽を調べる場合、また『黒くないもの』の数は極めて大きいので、『黒くないもの』を全て調べることは事実上不可能だ。
この論法を『鴉のパラドックス』とも呼ぶのだけれども、それは、ヘンペルの論法に従って『鴉が黒い』ことを証明するのが現実には不可能であるという見地に立ったものなんだ。
このように不可能なことを可能であるかのように扱う論法は、相手を納得させるための証明手段としては不適切だ。
一方、実際に調べなければならない個々の事例が常識的な数であれば、対偶論法による証明は有効だ。
例えば鴉を含む数十種類の動物を飼っている動物園があったとする。この動物園には、赤・青・黄色・黒の四つの檻があり、この他の檻や、檻の外で飼育されている動物は存在しない。
黒以外の三つの檻をすべて見終わった時点で、黒以外のどの檻にも鴉はいないことを確かめた。
このとき、鴉がこの動物園で飼育されているという前提が確かならば、『鴉は黒い檻にいる』ということは、実際にカラスを見るまでもなく明らかだろう?
それに、元の命題に当てはまるものが対象全体のうち多数を占める場合など、対偶を調べた方が容易となる場合もある。
例えば多数の鴉で構成された群れの中に、少数の黒くないものが混じっているような場合に、群れの中の全ての鴉が黒いことを証明するような場合がそうなのだよ」

「は、はぁ」

「以上の説明で分かるように、対偶論法を用いると日常の感覚とは相反する帰結が得られる。
ゆえに、ヘンペルの論法による確証は、対象が存在する・対象の総数が事実上有限と見なしてよい、などの諸前提が成り立ってはじめて、現実的に有用なものとなる」

「はい」

「もっとも、通常の論理学では、この作業が仮に不可能であってもヘンペルの論法は正しいことになる。
従って、実際には証明の遂行ができなくても『論理的には正しい』ということになり、感覚的には奇妙な結論が得られることに変わりはない。
そこでこうした超越的な操作や奇妙さを取り除いた、より『直観に合致する』論理学が、通常の論理学とは別に、構築されたのだよ」

「衒学趣味はやめてくだいよ、アシェラさん」

「ごめんごめん。言いたいことはわかるよ。るるせくんが思っている通りで正解さ」



「と、いうことは」




「ああ。それは〈八咫烏〉だ」


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登場人物紹介

蘆屋アシェラ

   蘆屋探偵事務所の探偵であり、陰陽師。

成瀬川るるせ

   警備員。

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