楽天地から徒歩一分。花壇街とは何ぞや ②

文字数 1,872文字

 楽天地と言えば――。
 色々な思い出がある方もいるでしょうが、私にとっては映画館です。
 さすがに、キャバレーやダンスホールは行ったことがなかったし。(^^;)

 祖父が楽天地の株主だったため、株主優待として映画観賞券を年に数回頂いていました。それをもらうと夕食の後に両親が出掛けていくのを見ながら「いいなぁ。映画観に行きたいなぁ」と留守番役に。
 初めて優待券で映画を観に行ったのは、父と行った「幸せの黄色いハンカチ」。今は亡き高倉健さんの代表作のひとつで、武田鉄矢さんの役者デビュー作と言える作品です。それまで、映画と言えば東宝のゴジラシリーズか東映のまんが祭りくらいだったので、中学生になり少し大人扱いしてもらえた気分がしてうれしかったのを覚えています。

 高倉健さんのファンと言うことではなかったけれど、「野生の証明」「南極物語」も優待券で観に行きました。「八甲田山」は中学の映画鑑賞会で。
 この地域ならではのことなのか、毎年近隣の小学六年生・中学生を対象に映画鑑賞会が開催されていました。小六の時はマーク・レスター主演の「小さな恋のメロディ」、中一が「八甲田山」で中二が「あゝ野麦峠」、中三は……思い出せない。(^^;)
 この取り組みは今も続いていて、たまに映画館前で大勢の児童たちが集合している場面に出くわします。


 ここで、当時の映画館街をご説明しましょう。
 錦糸町駅前の信号を渡ると正面に亀戸の方へ抜ける通りがありました。(複合ビルになってからも、この動線は中通路として残っています)
 この通りの線路側に、駅に近い方から順に江東劇場(東宝系)、リッツ劇場(洋画系)、キンゲキ(松竹系)、江東スカラ座、江東文化劇場(日活ロマンポルノ)、江東東映(東映系)、東映の向かい側に江東花月(洋画ポルノ)と並んでいたはず。並び順の資料が見つからなかったので、記憶に頼っていますが自信はあります。小中の頃はさすがに表通りを通っていましたが、高校以降は毎日、ここを通って駅まで行っていましたからね。
 この内、江東東映と江東花月は楽天地には所属していなくて単独館でしたが、連なって建っていたので、ここまでが楽天地という感覚です。既にお分かりの通り、如何(いかが)わしい感じが満載の通りなので、高校に入り友達が遊びに来ると「お前、すごいところに住んでいるなぁ」と驚かれるのが常でした。ここで生まれ育っていると当たり前の風景でも、山の手育ちには刺激が強かったようで(笑)。

 当たり前と言えば、もう少し遡って小学校一、二年生の頃までは、土日になるとこの中通りにバナナの叩き売りやガマの油売りなどが出ていたんです。映画館帰りや場外馬券売り場に来たオジサンたちを相手に商売をしていました。刀を取り出し、半紙を何枚も切っていき、最後は自分の腕に切り傷をつけてからガマの油で止血する。あのパフォーマンスは引き付けられるものがありました。
 恐らく、私と同年代の方でもあの口上を(なま)で聞いたことがあるなんて、殆どいないのではないでしょうか。旧き昭和が色濃く残っていた、そんな気がします。
 さらに遡ると、昭和三十年のGWには、江東劇場で美空ひばり歌謡ショーの後に「ゴジラの逆襲」という今では考えられない二本立てを行い、ものすごい動員だったらしいです。同劇場ではタカラヅカ公演も行った記録があり、まさに下町における娯楽の聖地だったんですね。

 中学生の頃だったか、瀬川瑛子さんもショーを行ったことがあります。
 スカラ座の向かいにあった錦楽飯店という中華レストランへ、祖母と弟たちとお昼ご飯を食べに行ったら偶然お見掛けしました。四、五人いらっしゃった中で、やはりオーラというか、瀬川さんの周りが華やいで見えたのが印象に残っています。

 ちなみに、この錦楽飯店は当時の錦糸町には珍しく、少し高級な感じ(^^;)の老舗。青椒肉絲がラーメンの上に乗った細切り肉入りそばが大好きで、牛肉ではなく豚肉に変えて作ってもらっていました。周りをカリッと揚げた肉団子も美味しかったなぁ。とろみのある甘酢ソースと白髪ねぎが掛かっていて、揚げた部分が表面だけではなく厚めの層になっているので、食べ始めはちょっと固い食感なのですが、その層を過ぎると中は柔らかでジューシー。あの店が閉店してから、あんな肉団子は食べたことがないなぁ。

 楽天地の思い出はたくさんあり過ぎて……。
 誰かに聞いてもらいたい話がいくつかあるので、もう少しお付き合いください。
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