敵か味方か!? 亀戸との因縁②
文字数 1,544文字
錦糸町駅は墨田区の東端に位置していて、お隣の江東区・亀戸駅はとても近く、電車が駅を出たところがホームから確認できます。
同じ墨田区の両国や押上へ行くには二、三十分ほど歩かなければなりませんが、ほんの五分ほど歩けば江東区・亀戸エリアに入ります。
しかーしっ!区境にはお年寄りが一苦労する難所が待ち構えているのです。
この辺りはゼロメートル地帯と呼ばれ、川の水位より地盤の方が低いために、橋は建物の二階くらいの高さまで上って下りる、いわゆる太鼓橋になっています。この上りが結構きつい。自転車ならば立ち漕ぎ必須、降りて押していく人もあるくらい、と言えば思い浮かべて頂けるかと。
区境を始め、墨田・江東地域は川(実際には水路ですが)が張り巡らされているため、地図で見るよりも実際の移動は楽ではありませんが、この難所をもろともせず昔から行き来は盛んでした。
そのよい例が亀戸天神。亀戸の有名な観光スポットの一つです。
その名からお分かりの通り、菅原道真を祀った学問の神として知られ、一月・二月の受験シーズンには多くの受験生で賑わいを見せます。また、冬の梅まつり、初夏の藤まつり、秋の菊まつり、といった、季節ごとに花を愛でるお祭りも有名です。
この亀戸天神、名に亀戸を有していながら、氏子となる地域は亀戸一丁目、三丁目のそれぞれ一部のみで(亀戸は九丁目まであるのに)、大部分を墨田区の町々が占めています。錦糸町駅から両国駅に掛けて総武線の南側に面する細長い地域がそれにあたり、錦糸町もその一つとなっています。
なぜ、そのように変則的になったのでしょうか?
亀戸天神が比較的新しく、1662年(江戸時代)に始まったとされるのに対し、亀戸には古参となる香取神社が亀戸地域の鎮守様として君臨していたからです。この香取神社、665年に藤原鎌足(!)がここを訪れ旅の無事を祈ったのが起因とされています。
『大化の改新』がこんなところでちらつくとは……亀戸天神より千年も前に創立されていたなんて、香取神社、恐るべし。
亀戸にはもう一つ、約千四百年前に創建されたと言われている天祖神社があり、柳島地区(現在の墨田区業平、横川など)の鎮守となっています。
このように亀戸地区には三つも大きな神社があるのに対し、錦糸町地区には全くありません。元々は湿地帯で、江戸時代末期に堀(川)が整備されてから町としての骨格が出来上がったので、新参者同士、亀戸天神と錦糸町が手を組んだ、というところですかね。
今でも錦糸町では『亀戸天神』とは言わずに『天神様』と呼び、宮司さんに名付け親になってもらった、という人も少なくありません。
かくいう私も……と言いたいところですが、残念ながら。二人の弟は、宮司さんが名付け親なんですけど(^^;)
ここでちょっと横道にそれて、天神様に架かる橋のお話を。
あまり広くはない境内の半分以上を池が占めています。その池には鳥居から本殿まで三本の橋が架かっていて、順に男橋・平橋 ・女橋と名づけられ、それぞれ過去・現在・未来を示すとされています。
池に掛かる太鼓橋と藤の花が描かれた浮世絵、歌川広重 作『亀戸天神境内』は名所江戸百景の一つとしても有名です。
ここまでは、よく聞くウンチクですが、なぜ男橋と女橋は太鼓橋になっているのか。今回は建築学的見地からご説明します。
この太鼓橋、地形による必然性がないにも関わらず、最も高いところは二メートルを超えるほどのほぼ半円状形をしており、かなり急勾配。橋の頂上も平らな部分が少なく、登ったらすぐに降りることになります。
その理由は………。
ヒントが、この段落の一行目に記されています。
同じ墨田区の両国や押上へ行くには二、三十分ほど歩かなければなりませんが、ほんの五分ほど歩けば江東区・亀戸エリアに入ります。
しかーしっ!区境にはお年寄りが一苦労する難所が待ち構えているのです。
この辺りはゼロメートル地帯と呼ばれ、川の水位より地盤の方が低いために、橋は建物の二階くらいの高さまで上って下りる、いわゆる太鼓橋になっています。この上りが結構きつい。自転車ならば立ち漕ぎ必須、降りて押していく人もあるくらい、と言えば思い浮かべて頂けるかと。
区境を始め、墨田・江東地域は川(実際には水路ですが)が張り巡らされているため、地図で見るよりも実際の移動は楽ではありませんが、この難所をもろともせず昔から行き来は盛んでした。
そのよい例が亀戸天神。亀戸の有名な観光スポットの一つです。
その名からお分かりの通り、菅原道真を祀った学問の神として知られ、一月・二月の受験シーズンには多くの受験生で賑わいを見せます。また、冬の梅まつり、初夏の藤まつり、秋の菊まつり、といった、季節ごとに花を愛でるお祭りも有名です。
この亀戸天神、名に亀戸を有していながら、氏子となる地域は亀戸一丁目、三丁目のそれぞれ一部のみで(亀戸は九丁目まであるのに)、大部分を墨田区の町々が占めています。錦糸町駅から両国駅に掛けて総武線の南側に面する細長い地域がそれにあたり、錦糸町もその一つとなっています。
なぜ、そのように変則的になったのでしょうか?
亀戸天神が比較的新しく、1662年(江戸時代)に始まったとされるのに対し、亀戸には古参となる香取神社が亀戸地域の鎮守様として君臨していたからです。この香取神社、665年に藤原鎌足(!)がここを訪れ旅の無事を祈ったのが起因とされています。
『大化の改新』がこんなところでちらつくとは……亀戸天神より千年も前に創立されていたなんて、香取神社、恐るべし。
亀戸にはもう一つ、約千四百年前に創建されたと言われている天祖神社があり、柳島地区(現在の墨田区業平、横川など)の鎮守となっています。
このように亀戸地区には三つも大きな神社があるのに対し、錦糸町地区には全くありません。元々は湿地帯で、江戸時代末期に堀(川)が整備されてから町としての骨格が出来上がったので、新参者同士、亀戸天神と錦糸町が手を組んだ、というところですかね。
今でも錦糸町では『亀戸天神』とは言わずに『天神様』と呼び、宮司さんに名付け親になってもらった、という人も少なくありません。
かくいう私も……と言いたいところですが、残念ながら。二人の弟は、宮司さんが名付け親なんですけど(^^;)
ここでちょっと横道にそれて、天神様に架かる橋のお話を。
あまり広くはない境内の半分以上を池が占めています。その池には鳥居から本殿まで三本の橋が架かっていて、順に男橋・
池に掛かる太鼓橋と藤の花が描かれた浮世絵、歌川広重 作『亀戸天神境内』は名所江戸百景の一つとしても有名です。
ここまでは、よく聞くウンチクですが、なぜ男橋と女橋は太鼓橋になっているのか。今回は建築学的見地からご説明します。
この太鼓橋、地形による必然性がないにも関わらず、最も高いところは二メートルを超えるほどのほぼ半円状形をしており、かなり急勾配。橋の頂上も平らな部分が少なく、登ったらすぐに降りることになります。
その理由は………。
ヒントが、この段落の一行目に記されています。