河内音頭 vs 江戸神輿 ①

文字数 1,388文字

 錦糸町を紹介する雑誌では、必ずと言っていいほど取り上げられている河内音頭。
 正直、興味がないので(ごめんなさい)、行ったこともないし(通った時に見たことはあるし、練習しているのを聞いたこともあります)、スルーしようかと思っていたけれど(錦糸町Loveを謳うならばそうもいくまい)、気を取り直して色々と調べてみました。

 錦糸町で河内音頭が始まったのは1982年。ダービー通りの角にあったパチンコ屋「銀星」の二階に、銀星劇場というイベントスペースがありました。河内音頭を東京で、と考えていた東京河内音頭振興隊なる方々がたまたまそこに目をつけ、第一回の公演を行ったそうです。
 その後、マルイが出来る前の都電車庫跡地で数年、ダービー通り裏の都有地(現在は駐車場)で数年、そして堅川親水公園に移ってから現在まで毎年八月の最終週に実施されています。
 ここは公園と名がついていますが、川を埋め立てて暗渠とし、上空には首都高速が通っている細長い広場です。普段は人通りもまばらで、雨が降っても大丈夫、大音量でも首都高の騒音で緩和され、付近はラブホばかりなので苦情も少ない、と何かやるにはもってこいの場所。
 元々、遊具も何もないところへ仮設ステージを組み、生バンドと生歌で踊るのが錦糸町河内音頭の特色で、廻りには様々な屋台が並び、赤い提灯がずらっと掲げられた中、普段着やスーツで踊る姿も多く見られるそうです。

 すっかり町の名物として広まり、和製ロックフェスのようだと評される、このイベント。そう、お祭りではなくこれは町おこし、それも錦糸町全体ではなく第三象限(「楽天地から徒歩一分。花壇街とは何ぞや ① 参照)に限定したイメージアップと客寄せのためのイベントだと思っています。主催は錦糸町商店街振興組合で、そこの現理事長は人形焼きの山田屋さんの社長だし。
 そもそも、大阪・河内で生まれた河内音頭がなぜ錦糸町で……そんな思いは、当時もあったようですが、地元民は今でもそう。少なくとも私の周りで「河内音頭を楽しみにして毎年行っている♪」という人はいません。

 河内音頭ファンの方々、ごめんなさい。河内音頭を嫌っているわけではなく、これが街の顔のように言われると、んん~と唸ってしまう気持ち。大阪からここへ移住した人が多く、河内タウンを形成している――もし、そんな理由があるならば、なるほどと納得もできます。錦糸町で三十年以上も続いているけれど、街の文化として根付いているわけではなく、商店街の方々が頑張っているのも分かりますが……。
 高円寺の阿波踊り、浅草のサンバカーニバルと同じことなのかもしれません。

 一つ言えるのは、錦糸町の中でも、この地域だからこそ続いたのだと。もし他の三つの地域ならここまで盛り上がることはなかったでしょう。古くから住んでいる人も少なく、歓楽街中心のこの地域だからこそ、ハマったイベント。
 会場付近でお店をやられている方だけでなく、河内音頭が毎年行われるようになってから生まれた世代ならば、待ち遠しいと楽しみにしている方もたくさんいるはず。その方たちが、これからもこのイベントを続けて育てていくのが大切なんだと感じています。
 毎年、二日間で三万人が集まるというこの「すみだ錦糸町河内音頭大盆踊り」、気になる方は一度足を運んでみてください。

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