第5話

文字数 2,388文字

 どうして母親があんなところに?もしかして、夜の犬の散歩のコースだったのか。

 今までばったり道で出くわすことすらなかったのに、同じような場所を散歩していたなんて。しかもよりにもよって、今日出会うなんて。

 大志は走りながら忙しなく思考を展開させていた。

 走りながら、ほんの一瞬後ろを振り返ると、母の姿はなかった。自分のことを追いかけて来てはいないようだ。 

 もしかすると、トイレの陰にあるものを目にしてしまったのかもしれない。しかし、ここからそれを確認する余裕など大志にはなかった。

 とにかく逃げなくてはと、大志は再び公園に併設された広場を駆けた。

 どこに向かって逃げて、そしてその後どうするのか、そんなことはまったく考えられなかった。

 ただとにかく、ここからすぐにでも離れたい。その気持ちだけで大志は駆けた。

 公園の出口まで辿り着いて、そこから左に曲がろうとした大志は、そこで向こうからとぼとぼと歩いてくる一人の少女と鉢合わせた。

 制服を着た高校生と思しき少女は、驚いたように大志の顔を見つめ、そして彼の右手に握られたナイフに気付くと、血の気の引いた顔でその場に立ちつくした。

 恐怖のあまり動けなくなってしまったのだろうか、大志は声も上げずその場に立つ少女と正対したまま、すでにナイフを握った自分の姿をしっかりと目撃されていることに焦りと絶望を覚えた。

 その時、公園の方から誰かが土を踏みしめながらかけてくる音が聞こえた。

 母が追ってきているのかもしれない。もう猶予はなかった。 

 大志はナイフを持つ右手を強く握りしめながら、少女をしっかりと見据えた。



 ようやく公園の出口まで辿り着いた尚子の視界に、蹲ったまま小さく震える少女の姿が飛び込んで来た。

 少女はまるで何かに祈るように両手を組んで、呆然とした表情で地面を見つめていた。

 彼女の手の間には、なぜかハンカチが挟み込まれていて、両方の掌で押さえつけるようにそれを持っていた。

「・・・大丈夫?なにかあったの?」

 尚子は身をかがめて、恐る恐る少女に話しかけた。

 少女は最初、警戒するように尚子の方へ目を向けていたものの、やがて落ち着いて来たのか、組んでいた手を離して、自分の掌を尚子に見せた。

 無言で手を差し出す少女、彼女の両の掌には真新しい切り傷が両方についていた。

 尚子は外灯に照らされたその切り傷の鮮やかな赤に言葉を失った。

 切りつけられた少女はどこかの学校の制服を着ていた。見た目の印象から、大志と同じ高校生だろうと尚子は思った。

「誰かに切られたの?」

 そう尋ねた尚子に、少女は唇を強く結んだまま、小さくうなずいた。

 尚子は、それはどんな奴で、どこへ向かって逃げていったのかを聞きだしたい衝動を抑え込みながら、少女に自分のハンカチを差し出した。

 公園の反対側で、救急車のサイレンが聞こえる。きっと、老人を助けるために自分が呼んだものにちがいない。

 本当なら自分が傍についていなければならなかったのだろう。決して軽くない罪悪感を抱えたまま、尚子は少女の右手に自分のハンカチを結んだ。

 もう片方の手は少女が自分の掌を押さえるために使っていたハンカチを結び、救急車を呼ぼうかと尋ねた。

「あ、大丈夫です。もう家がすぐそこなので・・・」

 消え入りそうな声でそう言った少女は、しばらく黙ったあと、何かを決心したように尚子の方へ視線を向け、口を開いた。

「あの・・・、私の手を切った人、顔は見えなかったんですけど、男の人でした。背の高さは私と同じくらいの、ちょっと年配の人で・・・」

 そこまで行って、少女はまた口をつぐんだ。

 無理しなくていいからと、尚子は少女の背中に手を当てて言った。一方で、彼女の言葉に一抹の疑問を感じた。

 少女を切りつけたのが男であると聞いた瞬間、尚子の大志に対する不安と疑念は確信に変わりかけた。けれど、その後に続いた言葉は尚子に小さな混乱を与えた。

 少女の身長は、立ち上がって比べてみたわけではないけれど、自分とそう変わらないか、或いは自分のほうが少し高いくらいだった。そして大志は自分より一〇センチ以上は背が高い。

 しかも少女は、相手は年配の男だとも言っていた。

 年配の男と言われて、イメージする姿は様々かもしれないけれど、少なくとも高校生の大志を見て年配の男と表現するはずなどない。

 もしかしたら、急な事で混乱しているのかもしれない、一瞬しか相手のことを見ていなかったのなら、大志の背丈や年齢が実物と異なったものに見えた可能性も有りうる。

 いや、本当に大志とは別の誰かだったのかもしれない。

 吐き気を覚えるほどの不安と困惑を抱えながら、尚子はもう一度、目の前の少女から彼女を切りつけた男の話を詳しく聞き出したいと思ったけれど、出来なかった。

 少女の細く頼りない背中は、まだ混乱の中にあるのか、それともどこか肌寒さの残る5月の夜のせいなのか、微かに震えているように見えた。

「家は近くって言ってたよね?送っていくからね。一人じゃ不安でしょ?」

 そう、尚子は少女に声を掛けた。本当なら、今すぐにでも大志を探しに行きたくて仕方が無かった。

 けれど、さっきの老人のようにこの少女を置きざりにするわけにはいかないと思い、その気持ちを押し殺して彼女にそう声を掛けた。

 少女は、尚子の言葉にどこか遠慮がちに俯いた後、そこなんで、と目の前の大きなマンションを指差した。

「今、親にも連絡を入れたんで、すぐに降りてくると思います」

 そう少女が答えたのと同時に、正面の仰々しいマンションの扉が開き、目を刺すような強い光の向こうから、少女の両親らしき一組の男女がこちらへ駆け寄って来た。 

 二人の血の気の失せた白い顔が、不必要なまでに明るいマンションのエントランスから門まで続く外灯の元で、一層その透明度を増しているように見えた。
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