第9話
文字数 3,117文字
一度、ワイシャツの左胸のあたりに手を置いて、それから少し、丁度人の頭の幅と同じくらいまで手を前に移動させると、美月の手のひらに、滑らかな黒髪の感触が蘇った。
女性にしては上背のある美月の胸の中で、子犬のように震える少女の、甘く若い香りが同時に再現され、美月の胸を突いた。
米原睦月が蒼ざめた唇を固く結んで、何かを決意したような様子で美月の前に現れたのは、受験シーズン真只中の慌ただしい頃だった。
その日の最終講義を終えて、美月は一日の振り返りレポートを作成するために、たった一人で講師控え室のパソコンを叩いていた。
その時、薄いパーテーションの向こうから、カツ、カツ、と、どこか前に進むのを躊躇うような小さな足音が聞こえてきた。
足音は時々その場で立ち止まりながら、ゆっくりと控室のドアの前までやってきた。
そして一度立ち止まると、少し間を置いてから意を決したように控室のドアをノックした。
「どうぞ」
美月がそう言うと、ノックの主はゆっくりとドアノブを回し、まだどこか躊躇するようにゆっくりと扉を開いた。
美月は待ちきれずにデスクから立ち上がると、編集中のレポートを保存しつつ扉の近くまで歩いていった。
美月が扉の手前まで来たとき、臆病なノックの主がようやく姿を現した。
「米原さん?どうしたの」
美月の前に現れたのは、彼女の担当する古典のクラスでよく顔を見る米原睦月という女子高校生だった。
まじめで、どちらかといえば目立たないような、一方で成績は群を抜いて良い、そんな印象の米原睦月が、今日は普段の落ち着いた佇まいには似つかわしくないほど、怯え切った表情を見せていた。
睦月は周りを警戒するように二度、三度廊下の方へ眼を向け、誰もいないことが確認できてからようやく控室の中へ入ってきた。
「どうしたの?そんなにきょろきょろして」
不安な心の動きがあまりにあからさまに伝わってきて、美月は思わず睦月の細い肩に手を置き、部屋の中の方へ入るよう促した。
「どうぞ」
美月は自分のデスクの真後ろにある同僚のデスクに仕舞われた椅子を出し、睦月に進めた。
睦月は両手の拳を固く握りしめたまま、勧められた椅子に座った。相変わらず、怯えるような目で二度、三度と周りを見回していた。
「今日はもう、私しかいないよ」
一体何に怯えているのかはわからないけれど、美月はそう言えば睦月が安心できるだろうと思い、努めて穏やかな口調で言った。
睦月は目を丸くして美月の方を見た。まるで自分の心を見透かされたかのような驚きをはらんだ視線だった。
何かあったのだろう。美月は直感の鋭いほうではなかったけれど、それでもそう思わずにはいられないほど、睦月の身体と心は震えていた。
「向こうに行こうか。おいで」
美月はデスクワーク用の椅子ではなく、部屋の奥にある面談用のソファを勧めた。そのほうが寄り添って話が聞けるような気がした。
睦月は小さな頭をほんの少し前に傾けた。それを同意の意思表示だと理解した美月は、椅子に座ったばかりの睦月を立ち上がらせて、ソファの方へ誘導した。
睦月は静かに立ち上がり、美月に促されるままにソファのある方へ向かった。
睦月のあまりに不安定な立姿は、美月をとんでもなく不安にさせた。
そのせいで美月は無意識に睦月の細い背中に手を当てて、彼女が崩れてしまわないように支えた。気づけば、美月は彼女の左手を強く握っていた。
二人はようやくソファに辿り着き、ゆっくりと腰掛けた。ほんの数メートルの移動のはずなのに、途方もなく長い距離を歩いてきたかのような錯覚を美月は覚えた。
「どうぞ、あ、ゆっくりでいいからね」
睦月は精巧なガラス細工を扱うような慎重さで美月に座るよう促した。
睦月はへたり込むようにソファに身体をあずけると、さっきまで強く握っていた美月の手を離し、両の手をそれぞれ反対の腕に巻きつけるようにまわし、何かから身を護るように強く自分の身体を抱きしめた。
「話せそう?何かあったんだね」
やさしくそう語りかけた美月に、睦月はすがるように、倒れ込むように抱きついた。
突然のことに動揺しながら、糸の切れた人形にも似た頼りない睦月を、美月は受け止めずにはいられなかった。
「ね、大丈夫、大丈夫だから」
睦月の滑らかな黒髪の上で掌をすべらせながら、美月は必死に、けれど焦らず、睦月をなだめた。
やがて、少し落ち着いたのか、睦月はゆっくりと顔を上げ弱々しい目で美月を見た。
「話せそう?無理はしなくていいよ」
そう言葉を掛けた美月。睦月はほんの少し荒い息遣いで小さく首を横に振ると、絞り出すように話し始めた。
「栗原先生、栗原先生に・・・、嫌なことをされました」
そこまで言って、睦月は唇を噛んで、そのまま黙り込んでしまった。
今の言葉が、彼女の精一杯だったのだろう。すべて言えなくとも、美月にはわかった。
栗原先生、嫌なこと、それだけで十分だった。何も言わず、それ以上の言葉を求めることもせず、目をきつく閉じて震える睦月を、美月は強く抱きしめた。
栗原はこの塾の経営者で、美月の雇い主である。
女癖の悪さは予てから知られていて、生徒にも手を出しているのではないかという噂は、講師たちの間でも広く知られていた。
だから、目の前にその事実を突きつけられても、美月に驚きはなかった。
その代わりに、自分の胸に顔を押し当てて震える細身の生徒が感じた悲嘆と恐怖を、彼女の艶やかな髪に当てた掌を通して感じた。
睦月の震える心の波長は美月の中に取り込まれ、怒りへと置き換えられつつあった。
「米原さん、ここを辞めたかったら、それでもいいと思うよ。もっといい塾なんて福岡にはたくさんあるし、私の知ってるところで、米原さんに相応しいところを紹介したっていいんだよ」
睦月の冷たい背中をやさしくさすりながら、美月は努めて優しい言葉を掛けた。
本当は今すぐにでも、栗原の自宅に押し入って、彼の汚らわしい所業について抗議したい思いで身体中が震えるほどだった。
もちろん、いまそんなことをしても、なんの証拠もなくおかしなことを言うなと、一蹴されるのがオチだ。
美月は塾をクビになるだろうし、そんなことになれば、睦月を守ってやれる者がいなくなってしまう。
気持ちの昂りを抑えながら、美月は睦月に新しい塾を探すことを勧めた。
悪者を目の前に被害者が逃げなければならないのは腹立たしいけれど、今は戦うことが得策ではないように思えた。
ところが、睦月は美月からの提案に小さく首を振った。
辞めたくないの?そう尋ねた美月の胸に睦月は一層強く顔を押し当てた。
答えることを拒んでいるのだろうけれど、美月は睦月がどこか恥じらうような素振りを見せていることに疑問を抱いた。
でも、美月はその理由を睦月に尋ねることはしなかった。
「この塾で勉強したいんだね」
できる限り穏やかに、睦月の心を落ち着かせるように、美月はそう声をかけた。
すると、さっきまで黙って美月の胸に顔を押し当てていた睦月が、不意に顔を上げた。
「先生と勉強がしたいです」
短くそれだけ言って、睦月はまた顔を隠してしまった。今度は気恥ずかしさをごまかすように。
けれど、睦月の囁きにも満たないその小さな言葉は、美月の頭の中で繰り返し反響した。
いつの間にか美月は、目の前の少女の小さな肩に添えた手に力を込めて、彼女を外から侵そうとする何者かから守るように、強く抱きしめた。
守ってあげるからね、そう心の中で美月は語りかけた。
声には出していないはずなのに、まるでその言葉が聞こえたかのように、睦月はさらに深く、美月に身体を預けた。
女性にしては上背のある美月の胸の中で、子犬のように震える少女の、甘く若い香りが同時に再現され、美月の胸を突いた。
米原睦月が蒼ざめた唇を固く結んで、何かを決意したような様子で美月の前に現れたのは、受験シーズン真只中の慌ただしい頃だった。
その日の最終講義を終えて、美月は一日の振り返りレポートを作成するために、たった一人で講師控え室のパソコンを叩いていた。
その時、薄いパーテーションの向こうから、カツ、カツ、と、どこか前に進むのを躊躇うような小さな足音が聞こえてきた。
足音は時々その場で立ち止まりながら、ゆっくりと控室のドアの前までやってきた。
そして一度立ち止まると、少し間を置いてから意を決したように控室のドアをノックした。
「どうぞ」
美月がそう言うと、ノックの主はゆっくりとドアノブを回し、まだどこか躊躇するようにゆっくりと扉を開いた。
美月は待ちきれずにデスクから立ち上がると、編集中のレポートを保存しつつ扉の近くまで歩いていった。
美月が扉の手前まで来たとき、臆病なノックの主がようやく姿を現した。
「米原さん?どうしたの」
美月の前に現れたのは、彼女の担当する古典のクラスでよく顔を見る米原睦月という女子高校生だった。
まじめで、どちらかといえば目立たないような、一方で成績は群を抜いて良い、そんな印象の米原睦月が、今日は普段の落ち着いた佇まいには似つかわしくないほど、怯え切った表情を見せていた。
睦月は周りを警戒するように二度、三度廊下の方へ眼を向け、誰もいないことが確認できてからようやく控室の中へ入ってきた。
「どうしたの?そんなにきょろきょろして」
不安な心の動きがあまりにあからさまに伝わってきて、美月は思わず睦月の細い肩に手を置き、部屋の中の方へ入るよう促した。
「どうぞ」
美月は自分のデスクの真後ろにある同僚のデスクに仕舞われた椅子を出し、睦月に進めた。
睦月は両手の拳を固く握りしめたまま、勧められた椅子に座った。相変わらず、怯えるような目で二度、三度と周りを見回していた。
「今日はもう、私しかいないよ」
一体何に怯えているのかはわからないけれど、美月はそう言えば睦月が安心できるだろうと思い、努めて穏やかな口調で言った。
睦月は目を丸くして美月の方を見た。まるで自分の心を見透かされたかのような驚きをはらんだ視線だった。
何かあったのだろう。美月は直感の鋭いほうではなかったけれど、それでもそう思わずにはいられないほど、睦月の身体と心は震えていた。
「向こうに行こうか。おいで」
美月はデスクワーク用の椅子ではなく、部屋の奥にある面談用のソファを勧めた。そのほうが寄り添って話が聞けるような気がした。
睦月は小さな頭をほんの少し前に傾けた。それを同意の意思表示だと理解した美月は、椅子に座ったばかりの睦月を立ち上がらせて、ソファの方へ誘導した。
睦月は静かに立ち上がり、美月に促されるままにソファのある方へ向かった。
睦月のあまりに不安定な立姿は、美月をとんでもなく不安にさせた。
そのせいで美月は無意識に睦月の細い背中に手を当てて、彼女が崩れてしまわないように支えた。気づけば、美月は彼女の左手を強く握っていた。
二人はようやくソファに辿り着き、ゆっくりと腰掛けた。ほんの数メートルの移動のはずなのに、途方もなく長い距離を歩いてきたかのような錯覚を美月は覚えた。
「どうぞ、あ、ゆっくりでいいからね」
睦月は精巧なガラス細工を扱うような慎重さで美月に座るよう促した。
睦月はへたり込むようにソファに身体をあずけると、さっきまで強く握っていた美月の手を離し、両の手をそれぞれ反対の腕に巻きつけるようにまわし、何かから身を護るように強く自分の身体を抱きしめた。
「話せそう?何かあったんだね」
やさしくそう語りかけた美月に、睦月はすがるように、倒れ込むように抱きついた。
突然のことに動揺しながら、糸の切れた人形にも似た頼りない睦月を、美月は受け止めずにはいられなかった。
「ね、大丈夫、大丈夫だから」
睦月の滑らかな黒髪の上で掌をすべらせながら、美月は必死に、けれど焦らず、睦月をなだめた。
やがて、少し落ち着いたのか、睦月はゆっくりと顔を上げ弱々しい目で美月を見た。
「話せそう?無理はしなくていいよ」
そう言葉を掛けた美月。睦月はほんの少し荒い息遣いで小さく首を横に振ると、絞り出すように話し始めた。
「栗原先生、栗原先生に・・・、嫌なことをされました」
そこまで言って、睦月は唇を噛んで、そのまま黙り込んでしまった。
今の言葉が、彼女の精一杯だったのだろう。すべて言えなくとも、美月にはわかった。
栗原先生、嫌なこと、それだけで十分だった。何も言わず、それ以上の言葉を求めることもせず、目をきつく閉じて震える睦月を、美月は強く抱きしめた。
栗原はこの塾の経営者で、美月の雇い主である。
女癖の悪さは予てから知られていて、生徒にも手を出しているのではないかという噂は、講師たちの間でも広く知られていた。
だから、目の前にその事実を突きつけられても、美月に驚きはなかった。
その代わりに、自分の胸に顔を押し当てて震える細身の生徒が感じた悲嘆と恐怖を、彼女の艶やかな髪に当てた掌を通して感じた。
睦月の震える心の波長は美月の中に取り込まれ、怒りへと置き換えられつつあった。
「米原さん、ここを辞めたかったら、それでもいいと思うよ。もっといい塾なんて福岡にはたくさんあるし、私の知ってるところで、米原さんに相応しいところを紹介したっていいんだよ」
睦月の冷たい背中をやさしくさすりながら、美月は努めて優しい言葉を掛けた。
本当は今すぐにでも、栗原の自宅に押し入って、彼の汚らわしい所業について抗議したい思いで身体中が震えるほどだった。
もちろん、いまそんなことをしても、なんの証拠もなくおかしなことを言うなと、一蹴されるのがオチだ。
美月は塾をクビになるだろうし、そんなことになれば、睦月を守ってやれる者がいなくなってしまう。
気持ちの昂りを抑えながら、美月は睦月に新しい塾を探すことを勧めた。
悪者を目の前に被害者が逃げなければならないのは腹立たしいけれど、今は戦うことが得策ではないように思えた。
ところが、睦月は美月からの提案に小さく首を振った。
辞めたくないの?そう尋ねた美月の胸に睦月は一層強く顔を押し当てた。
答えることを拒んでいるのだろうけれど、美月は睦月がどこか恥じらうような素振りを見せていることに疑問を抱いた。
でも、美月はその理由を睦月に尋ねることはしなかった。
「この塾で勉強したいんだね」
できる限り穏やかに、睦月の心を落ち着かせるように、美月はそう声をかけた。
すると、さっきまで黙って美月の胸に顔を押し当てていた睦月が、不意に顔を上げた。
「先生と勉強がしたいです」
短くそれだけ言って、睦月はまた顔を隠してしまった。今度は気恥ずかしさをごまかすように。
けれど、睦月の囁きにも満たないその小さな言葉は、美月の頭の中で繰り返し反響した。
いつの間にか美月は、目の前の少女の小さな肩に添えた手に力を込めて、彼女を外から侵そうとする何者かから守るように、強く抱きしめた。
守ってあげるからね、そう心の中で美月は語りかけた。
声には出していないはずなのに、まるでその言葉が聞こえたかのように、睦月はさらに深く、美月に身体を預けた。