第4話
文字数 3,059文字
犬と一緒に歩いているときが、尚子にとっては一番の穏やかな時間だった。特に夜中の散歩はいい、適当に家族と離れる口実が出来る。
わざわざ家族が家でくつろいでいる時間にそこから離れることに意味があるのだ。
たとえ家族同士であっても、時には適度に距離をとることが大切なのだと、最近尚子は考えるようになった。
近すぎても息が詰まってしまう。家族なんだからいつも一緒にいるのが当たり前だなんて、そんな窮屈な理屈に人生を振り回される必要などないのだ。
特に子供たちが手のかからない年齢になった今となっては、むしろ積極的に自分の時間を持つようにしなければならないと、尚子は自分に言い聞かせるように何度も強く頷いた。
尚子の住む住宅街は、夜中でも外灯の灯りが煌々と周囲を照らすので、歩いていても危険は感じない。
去年、晴れて定年退職した夫は、この春めでたく再雇用され、今年からまた昼間は家にいない。
その代わり、家に籠っている長男は今年、高校三年生になった。勿論、高校を辞めていなければの話である。
無事に就職して社会人生活を送る長女も、最近は仕事のストレスのせいか、苛立ちを自分にぶつけることが多く、長男のことがそれに一層拍車をかけていた。
自分のことで精一杯なら、弟のことにまで構う必要も無いだろうに、そう尚子は思うのだけれど、そういうわけにもいかないらしい。
進学、就職、資格。そのあたりの話を、長女はそれこそ目が合うたびに長男に向かって言い募るものだから、長男の方はすっかり参ってしまったようで、今は自室から出ることすら厭うようになってきている。
その態度が、一層長女の苛立ちを増幅させているようにも見えるけれど、そろそろ匙を投げそうだと、そんな予感が尚子にはしていた。
それでいいと思う、長男のことは不安の種ではあるけれど、もう少しそっとしておいてやっても良いような気が、尚子にはしていた。
確信は無いけれど、待てば海路の日和ありの言葉通り、彼には何かが待っている気がするのだ。
ただし、全く根拠はない。単純に、長男のことから逃げようとするための口実なのかもしれない。
でも実際問題として、これ以上深く考えても答えは出てこないのだから、少しだけ逃げるくらいが丁度いいのだ。そうしなければ、保てない。
夫はあまり子供たちの現状に向き合おうとはしてくれず、再雇用されたのをいいことに、仕事を理由にまだまだ問題から逃げ続けるつもりのようだ。
尚子は仕事をしながら子どもたちと向き合ってきたというのに。
ただ尚子も、もう抱えきれそうにない。今はこうして、夜の散歩に逃げることで自分を保ってはいるけれど、そろそろ本当に逃げ出す日が来るような気がしていた。
住宅街を抜けて、外灯の数がぽつぽつとまばらになってきたところに、公園があった。
尚子はいつもこの公園の広場をぐるりと犬と一緒に歩いてから、家に引き返している。今日もまた同じように、公園をとぼとぼ歩いてから帰るつもりだった。
公園の入り口から見てすぐ左側に、異様なほどに明るく真新しい公衆トイレがあった。
清潔すぎるトイレは、闇やケガレや、その他諸々のいかがわしさを拒否する心性の極致だと宣っていた大学時代の恩師の顔を、尚子はここを通るたびに思いだしてしまう。
恩師はいかがわしさのない世界は息苦しくもあると言っていた。
夫と出会ったのも大学のころだった。自分は文学部で、なぜが民俗学を専攻し、あっちは経済学部の経営学科で、いつか起業してやると息巻いて、滔々と夢を語っていた。
今では二人とも、あのころ学んでいたことを全く活かすことなく生きている。
遠い昔になってしまったけれど、あの日の思い出と手のかかる子供の存在が、尚子と夫を繋いでいたのかもしれない。
思い出が霞んで、子供が自分たちの手を離れて行けば、そのうち私も夫と離れていくのだろうか、長男はそうならないように、家に引き籠ってまだまだ手のかかる子供でいようとしているのだろうか。
とりとめもなくそんなことを考えながら、尚子は公園に入った。
ふと、その公衆トイレの陰からふらふらと人影が現れた。頼りなく後退るその人影に目を凝らすと、尚子の視線に気が付いたのか、その人影もこちらへ目を向けてきた。
それと目が合った瞬間、尚子はその以外な正体に思わず目を見開いた。
公衆トイレの陰からよたよたと現れた人影は、自分の長男、大志だった。
大志が夜中に何も言わず散歩に出かけていることは、尚子も知っていた。
危なくはないかと心配にはなっていたけれど、いつも何事もなく帰ってくるので、ここ最近は特に気にすることもなくなっていた。
しかし、物陰から現れた大志の顔は、いつにも増して蒼白く、血の気が引いていると言っても決して誇張ではないように思えた。
「ちょっと、そこで何して・・・」
尚子がそう声を発した、その一瞬、大志はトイレの陰になっている方へ目を向け、そして何かに驚いたように目を大きく見開くと、身体を反転させ尚子とは反対の方角へ駆け出した。
止める暇もなく息子の背中を目で追った尚子は、駆けていく彼の右手に、何か光るモノが握られているのに気が付いた。
それが何なのか、確認出来ないうちに大志の背中は小さくなっていった。
尚子は言い知れぬ胸騒ぎを覚えて、大志がふらふらと現れた公衆トイレの陰に近づいた。
この先にあるモノを見てはならないと、なぜか尚子の心がそう強く訴えているような気がした。
理由はわからない。けれど、トイレの陰に何があるのかを見てみなければ、却って尚子の不安は収まらないような気がした。
恐る恐る公衆トイレの方へ近づき、死角になっている建物の陰を覗き込んだ。しかし、そこに見えた光景に尚子は言葉を失った。
トイレの陰には白髪の老人が一人、首元を抑えてうつぶせに倒れていた。
悶えるように頭を強く地面に押し付ける老人の着る灰色のスウェットが、首周りを鮮血で染められていることに尚子は気付いた。
老人の首からも夥しい量の血が流れ出ており、老人は手を自分の左側の首筋に押し付けて、必死にそれを止めようとしていた。
けれど、段々その体力も尽きてきたのか、押し付けていた手が徐々に首から離れていった。
突然に目の前に現れたあまりに突飛な状況に、尚子は動転しながらも、反射的に自分の首にかけていたタオルを取り、老人の首筋の傷口の辺りに強く巻き付けた。
「大丈夫ですか、しっかり、大丈夫ですか・・・」
何度もそう呼びかける尚子だったが、老人はもはやそれに応える力も残っていないようだった。
力なく突っ伏した老人をこのままにしておくわけにもいかない。とはいえ、大志の後も追わなければならない。
目の前で起きていることをまだ消化しきれてはいないけれど、状況から見て大志がこの老人と接触を持って、そして、考えたくはないけれど、老人の首を切りつけて逃げて行ったのかもしれない、そう尚子は思った。
さっき大志の手元に見えた光る何かは、ナイフだったのかもしれない。そう考えただけで、居てもたってもいられなくなった。
とにかく、今すぐ大志に追いついて、何があったのかを問いたださなければならない。
尚子は罪悪感に駆られながらも、電話で救急車を呼ぶと、そちらに着くまでそこにいてくださいと頼む耳元の声を聞き流し、電話を切ると同時に大志の駆けていった方へ向かって走りだした。
急にその歩みを速めた飼い主に引き摺られるようにして、傍らの犬も駆け出した。
わざわざ家族が家でくつろいでいる時間にそこから離れることに意味があるのだ。
たとえ家族同士であっても、時には適度に距離をとることが大切なのだと、最近尚子は考えるようになった。
近すぎても息が詰まってしまう。家族なんだからいつも一緒にいるのが当たり前だなんて、そんな窮屈な理屈に人生を振り回される必要などないのだ。
特に子供たちが手のかからない年齢になった今となっては、むしろ積極的に自分の時間を持つようにしなければならないと、尚子は自分に言い聞かせるように何度も強く頷いた。
尚子の住む住宅街は、夜中でも外灯の灯りが煌々と周囲を照らすので、歩いていても危険は感じない。
去年、晴れて定年退職した夫は、この春めでたく再雇用され、今年からまた昼間は家にいない。
その代わり、家に籠っている長男は今年、高校三年生になった。勿論、高校を辞めていなければの話である。
無事に就職して社会人生活を送る長女も、最近は仕事のストレスのせいか、苛立ちを自分にぶつけることが多く、長男のことがそれに一層拍車をかけていた。
自分のことで精一杯なら、弟のことにまで構う必要も無いだろうに、そう尚子は思うのだけれど、そういうわけにもいかないらしい。
進学、就職、資格。そのあたりの話を、長女はそれこそ目が合うたびに長男に向かって言い募るものだから、長男の方はすっかり参ってしまったようで、今は自室から出ることすら厭うようになってきている。
その態度が、一層長女の苛立ちを増幅させているようにも見えるけれど、そろそろ匙を投げそうだと、そんな予感が尚子にはしていた。
それでいいと思う、長男のことは不安の種ではあるけれど、もう少しそっとしておいてやっても良いような気が、尚子にはしていた。
確信は無いけれど、待てば海路の日和ありの言葉通り、彼には何かが待っている気がするのだ。
ただし、全く根拠はない。単純に、長男のことから逃げようとするための口実なのかもしれない。
でも実際問題として、これ以上深く考えても答えは出てこないのだから、少しだけ逃げるくらいが丁度いいのだ。そうしなければ、保てない。
夫はあまり子供たちの現状に向き合おうとはしてくれず、再雇用されたのをいいことに、仕事を理由にまだまだ問題から逃げ続けるつもりのようだ。
尚子は仕事をしながら子どもたちと向き合ってきたというのに。
ただ尚子も、もう抱えきれそうにない。今はこうして、夜の散歩に逃げることで自分を保ってはいるけれど、そろそろ本当に逃げ出す日が来るような気がしていた。
住宅街を抜けて、外灯の数がぽつぽつとまばらになってきたところに、公園があった。
尚子はいつもこの公園の広場をぐるりと犬と一緒に歩いてから、家に引き返している。今日もまた同じように、公園をとぼとぼ歩いてから帰るつもりだった。
公園の入り口から見てすぐ左側に、異様なほどに明るく真新しい公衆トイレがあった。
清潔すぎるトイレは、闇やケガレや、その他諸々のいかがわしさを拒否する心性の極致だと宣っていた大学時代の恩師の顔を、尚子はここを通るたびに思いだしてしまう。
恩師はいかがわしさのない世界は息苦しくもあると言っていた。
夫と出会ったのも大学のころだった。自分は文学部で、なぜが民俗学を専攻し、あっちは経済学部の経営学科で、いつか起業してやると息巻いて、滔々と夢を語っていた。
今では二人とも、あのころ学んでいたことを全く活かすことなく生きている。
遠い昔になってしまったけれど、あの日の思い出と手のかかる子供の存在が、尚子と夫を繋いでいたのかもしれない。
思い出が霞んで、子供が自分たちの手を離れて行けば、そのうち私も夫と離れていくのだろうか、長男はそうならないように、家に引き籠ってまだまだ手のかかる子供でいようとしているのだろうか。
とりとめもなくそんなことを考えながら、尚子は公園に入った。
ふと、その公衆トイレの陰からふらふらと人影が現れた。頼りなく後退るその人影に目を凝らすと、尚子の視線に気が付いたのか、その人影もこちらへ目を向けてきた。
それと目が合った瞬間、尚子はその以外な正体に思わず目を見開いた。
公衆トイレの陰からよたよたと現れた人影は、自分の長男、大志だった。
大志が夜中に何も言わず散歩に出かけていることは、尚子も知っていた。
危なくはないかと心配にはなっていたけれど、いつも何事もなく帰ってくるので、ここ最近は特に気にすることもなくなっていた。
しかし、物陰から現れた大志の顔は、いつにも増して蒼白く、血の気が引いていると言っても決して誇張ではないように思えた。
「ちょっと、そこで何して・・・」
尚子がそう声を発した、その一瞬、大志はトイレの陰になっている方へ目を向け、そして何かに驚いたように目を大きく見開くと、身体を反転させ尚子とは反対の方角へ駆け出した。
止める暇もなく息子の背中を目で追った尚子は、駆けていく彼の右手に、何か光るモノが握られているのに気が付いた。
それが何なのか、確認出来ないうちに大志の背中は小さくなっていった。
尚子は言い知れぬ胸騒ぎを覚えて、大志がふらふらと現れた公衆トイレの陰に近づいた。
この先にあるモノを見てはならないと、なぜか尚子の心がそう強く訴えているような気がした。
理由はわからない。けれど、トイレの陰に何があるのかを見てみなければ、却って尚子の不安は収まらないような気がした。
恐る恐る公衆トイレの方へ近づき、死角になっている建物の陰を覗き込んだ。しかし、そこに見えた光景に尚子は言葉を失った。
トイレの陰には白髪の老人が一人、首元を抑えてうつぶせに倒れていた。
悶えるように頭を強く地面に押し付ける老人の着る灰色のスウェットが、首周りを鮮血で染められていることに尚子は気付いた。
老人の首からも夥しい量の血が流れ出ており、老人は手を自分の左側の首筋に押し付けて、必死にそれを止めようとしていた。
けれど、段々その体力も尽きてきたのか、押し付けていた手が徐々に首から離れていった。
突然に目の前に現れたあまりに突飛な状況に、尚子は動転しながらも、反射的に自分の首にかけていたタオルを取り、老人の首筋の傷口の辺りに強く巻き付けた。
「大丈夫ですか、しっかり、大丈夫ですか・・・」
何度もそう呼びかける尚子だったが、老人はもはやそれに応える力も残っていないようだった。
力なく突っ伏した老人をこのままにしておくわけにもいかない。とはいえ、大志の後も追わなければならない。
目の前で起きていることをまだ消化しきれてはいないけれど、状況から見て大志がこの老人と接触を持って、そして、考えたくはないけれど、老人の首を切りつけて逃げて行ったのかもしれない、そう尚子は思った。
さっき大志の手元に見えた光る何かは、ナイフだったのかもしれない。そう考えただけで、居てもたってもいられなくなった。
とにかく、今すぐ大志に追いついて、何があったのかを問いたださなければならない。
尚子は罪悪感に駆られながらも、電話で救急車を呼ぶと、そちらに着くまでそこにいてくださいと頼む耳元の声を聞き流し、電話を切ると同時に大志の駆けていった方へ向かって走りだした。
急にその歩みを速めた飼い主に引き摺られるようにして、傍らの犬も駆け出した。