第26話

文字数 2,429文字

 地下鉄が姪浜駅の手前で地上に上がっていく瞬間を見るのが、悠人はいつも好きだった。

 地下鉄の線路の、あの四方を囲まれているような息苦しさは苦手だ。

 ただこの街に住む限り、地下鉄を利用せずに過ごすなんてほぼ不可能だし、実際地下鉄はとても便利だ。

 あの閉鎖空間のストレスから悠人が自由になる日が来ないのも、仕方のないことだ。

 だからこそ、列車が地上へと出て行くこの瞬間が何よりも悠人の心を開放的にさせる。

 悠人はそんな愉快な心持ちで隣に立つ純季を見たけれど、吊革を掴む能面のような表情からは、何の感情も掴めなかった。

 姪浜に着いた列車から、乗客が吐き出されて行く。

 特に家族連れが多い地域だから、夕方5時台は小学生くらいの子供や、小さな子供をベビーカーに乗せた人の姿がよく見られる。

 一方で、この時間帯に職場から帰宅していると思しき人の姿はそう多くはない。

 社会に出て働き始めたら、この時間にはまだ家には帰れないんだなと、そんなことを悠人はぼんやり考えながら、人混みを掻き分け階段を下りた。

 でもそう遠くない未来に、自分もそういう明るいうちに家に帰れない生活を送るようになるのだろう。

 悠人はなんだか楽しくない未来予想をつらつらと頭に浮かべた。

 勉強は大して好きではないし、大学に行くには学力も、多分財力もないから、高校を卒業して働くことになるんだろう。

 働くのって楽しいのだろうか。穏やかに生きていくことは出来るのだろうか。

 学校のように、まわりの雰囲気や空気に注意を払いながら生きていく必要はあるのだろうか。

 あるのなら、それは嫌だな。駅の階段を降りる悠人の頭の中で、そんな考えが入れ替わり立ち替わり、目まぐるしく流れ去っていった。

 いつの間にか、自分の後に電車を降りた純季が自分の前を歩いていた。人混みの中を器用に縫って、彼は改札口へと進む。

 置いていかれまいと悠人もその後を追うけれど、純季との距離は結び目を解かれた紐のようにするすると離れていった。

「歩くの早いよな」

 そんな言葉を、悠人は純季の背中に向かって投げたけれど、届いてないようだった。

 純季は後ろに注意を払うこともなく、そのまま改札口を通って外へ出ていってしまった。

 それでも、改札を出たところで、自分が悠人を随分引き離してしまったことに気がついたのか、その場で立ち止まって悠人が来るのを待っていた。

「ちょっと気づくの遅いよな」

 今度は聞こえそうに無いくらい小さな声で、悠人は言った。それと同時に、無意識に苦笑いが漏れた。

 純季はそんな悠人の様子を見て怪訝そうに眉根に皺を寄せた。そこには気づくのか、と、悠人は思った。

 悠人が改札口を出て純季に追いつくと、二人は揃って姪浜駅の南口から駅の外へ出た。

 夕方の姪浜駅南口は、中高生やもっと年齢の低い子供、そして幾人かのスーツ姿の人々が行き交っていた。

 目の前のロータリーにはバスやタクシーが引きも切らず乗り入れ、電車から弾き出された人たちの何人かは、今度はバスの方へと引き込まれていった。

 悠人と純季はロータリーの左側へと歩みを進めた。

 安っぽいレンガ調の壁に囲まれたパチンコ屋の電光掲示板が、二人を見下ろしながら新機種の導入をしつこいくらいに喧伝していた。

 ロータリーの左端出口からやや上り坂になっている直線道路は、五十メートルほど先で公園に行き当たる。

 そして道路の周囲には、十数階建てのビルやマンションが軒を連ねており、それらが壁のように道路のまわりの空間を圧迫している。

 そのせいか、公園の先にある空間はどこまでも青空が広がり、檻から解き放たれたような軽やかさと開放感が感じられた。

 横断歩道を渡り、二人は公園に向かって歩いた。

 その途中に交差点が幾つかあり、そこでビルの連なりが途切れ、強い日差しが西の方角から二人を押しつぶすように降り注いだ。

 二人して顔をしかめながらそこをやり過ごし、公園の目の前の横断歩道を渡った。

 そして、夕暮れの公園で遊具に群がったり、隣の広場でサッカーに興じている子どもたちを横目に見ながら、左の方へ進路を変えた。

 少し歩いて、今度は右に曲がると、公園沿いの戸建住宅の密集するエリアに分け入るように歩みを進めた。
 
 ある住宅の狭い駐車場スペースで、小さな子供が一人、退屈そうにビニール製のボールを地面に叩きつけていた。

 地面にぶつけられたボールは勢いよくはずみ、子供の背丈を超えて緩やかに宙を舞った。

 思わぬ動きを見せたボールに、当の子供は呆けたように口を開いたまま、頭上を越えていくボールの行方を追っていた。

 ボールは二度、三度と跳ね上がりながら、悠人達のそばまで来た。

 悠人はそれを手に取り、ぼんやりとこちらを見る子供に、はい、と手渡した。

「ありがとう」

 子供は、素直な性格が滲み出る笑顔で悠人に礼を言うと、すぐにまた、同じようにボールを地面に叩きつけて遊び始めた。

 その様子に悠人から思わず笑みが零れた。純季は相変わらずの仏頂面ではあったが、さっきよりは随分緩んだ仏頂面だと悠人は思った。

 公園から離れて、さらに奥まった場所まで行くと、林立する戸建ての中に、ひときわ広い敷地を専有する家が見えた。

 悠人と純季は連れ立ってその家の表門から中へ入り、広く、よく手入れされた庭を通って玄関まで辿り着いた。

 悠人が玄関ドア横に取り付けられたインターホンを押すと、スピーカーの向こうから、開いてるよ、と声が流れた。

「はーい」

 悠人は返事をしつつ、玄関ドアに手をかけた。

 自分の家なのだから、インターホンなんて押す必要ないのに、安全のためにこうするの決まりになっている。部屋の中のモニターで確認するためだそうだ。

「ただいまー」

 威勢よくそう言った悠人の後ろで、純季が聞こえるか聞こえないかの小さな声で、ただいま、と言った。

「おかえりー」

 玄関横にあるドアで隔てられた向こう側の部屋から、高いトーンの声が帰ってきた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み