第2話

文字数 2,747文字

 夜の散歩は、学校を辞めてからの大志の唯一つの楽しみだった。

 ほとんど引きこもりのような生活を送っていた大志だったが、ずっと家の中に居続けるのは、それはそれで苦痛だった。

 とりわけ両親や姉が家に帰ってきて以降の時間は、自分の部屋にいることすら居心地が悪かった。

 高校を中退して1ヶ月くらい経ったころだったろうか、就職したての姉が、夜中に両親に向かって言っていたことを、大志は今でも鮮やかに頭の奥で再生することが出来る。

 夜中に強い喉の渇きを覚えた大志は、自分の部屋を出て、出来る限り音を立てないようにしながら一歩ずつ階段を下り、台所を目指した。

 自分の家の中で歩いているのに、なぜかそのことを誰にも気づかれなくなかったのだ。

 家の中ですらこそこそとしてしまう自分の情けなさを心の隅に留め置いて、大志は一層慎重に階段を下りた。

 階段を降り切ったところで、大志は居間の灯りがまだ点いているのを目にした。

 誰かが起きているのだろう。姉だろうか、親だろうか、どちらであっても、なんとなく顔を合わせるのは気まずかった。

 ただ、一度感じた渇きはどうしようもなく大志の喉にまとわりついてきた。水を飲んだらすぐに部屋に戻ることにして、大志は意を決して居間のドアに近づいた。

 ドアの向こうから、何人かの人間の声が折り重なるようにして大志の耳に伝わってくる。  

 どうやら、姉も両親も居間にいるようだった。特に声の大きい姉が、何かを訴えるように両親に話しかけていた。

 大志はドアの前で息を殺して三人のやりとりに耳をすませた。

「通信制にも行きたがらないの?どうすんの、もうあとちょっとで、あいつ高三になるんだよ。ねぇ、なんか資格とか取らせたりとかした方がいいんじゃないの」

 ドア一枚を隔てていても、彼女の声はよくとおった。姉は両親を説得するように、そしてどこか決断を迫るような口調で、さらに話を続けた。

「まあ今時、不登校は珍しくないし、世間ではいろんな道があるとか言ってるけど、実際は甘くないよ。私の塾でも、学校に行ってない子が来たりしてしてるよ、確かに。けどそういう子たちだって結局、受験して高校や大学には進学していくの。大志だって勉強を続けてくんなら問題ないよ。通信制なり、塾なりに行って、大学を受験できるような状況にもっていけるんなら、それでいい。でもさぁ、それすら出来ないっていってるんでしょ、あいつ」

 熱を帯びる姉の言葉の一つ一つが、大志の柔らかな心のひだを焼いた。

 もう少し様子を見てあげたらと、母が穏やかに、けれどどこか遠慮がちにそう言うと、姉はすかさず、いつまで、と詰問するように問い返した。

「そんな時間はないよ、みんなと同じペースで進学したり、就職したりってことが出来ないのは、後々絶対、本人を厳しい状況に追い込むよ。回り道は良いけど、それは出来るだけ最小限にしないと」

「私、必要だったら不登校の子供を塾に通わせてる親御さんに聞いてもいいよ。塾に通わせる以外に、子供にしてあげてることとか、学校に戻すためにどう子供をその気にさせているかとか」

 うちの塾に来させてもいい。学校の授業料と比べたって、それほど出費が多くなるわけじゃないと思うからと、姉は言った。

 大志はいつの間にか、音もなく後ずさりながら、二階へと続く階段まで戻っている自分に気付いた。

 無意識に姉の言葉を忌避していた。空気が張り付くほどの渇きを感じているにも関わらず、喉の潤いよりも目の前の苦痛からの逃避を選んだのだ。

 床のわずかな軋みすら恐れるほど、静かに、慎重に、大志は階段を上った。

 上りながら、焦りと悔しさを噛み締め、嗚咽が漏れそうになるのを必死に堪えた。姉に対して憎い気持ちはあったけれど、それ以上に、何も言い返せない自分の現状が呪わしかった。

 そして、彼女の手によって外の世界に引き摺り出されようとする自分の姿を想像し、身体が震えた。

 家にも居場所はない。少なくとも家族がいる時間は・・・。大志はそう痛感した。 

 そんなことがあったから、大志はこうして、夜の散歩に出掛けるのだ。家から避難するために。 

 合鍵を持って出るから、鍵を閉めていても大丈夫だと母には伝えた。そしていつも音もなく外に出て、音もなく帰宅する。

 両親や姉は心配しているかもしれないし、していないかもしれない。そこに思いを至らせることにすら、大志はもう嫌気がさしていた。

 今日もいつも通り散歩のための服に着替え、家族が居間でくつろいでいる間に家を出てしまおうと思った。まだ夜は冷えるので、上着をハンガーラックから外した。

 それから、机の引き出しの上段を開け、銀色に光を放つナイフを取り出した。

 所謂バタフライナイフというやつで、ネットで割と簡単に手に入れることが出来た。

 どうしてこれを買ってしまったのか、今となってはよくわからない。自分が確かな力を持っていることを誇示できるものが、なんでもいいから欲しかったのかもしれない。

 灯りを消した真っ暗な部屋のなか、窓から差し込む月明りの下で、大志はバタフライナイフを片手で器用に出し入れしながらそんなことを考えた。

 バタフライナイフの刃を出す方法も、ネットで配信されている動画で覚えた。

 こんなものを持って散歩に行けば、悪くすれば警察の職務質問を受けることになるかもしれないと大志は思った。

 ただ散歩をしているだけならそんな心配をする必要など無いのかもしれないけれど、大志が散歩をする姿はきっと挙動不審に見えているに違いない。

 実際大志には、夜道を歩いているときに辺りを怯えたように見回す癖があった。

たとえ暗い夜道であっても、常に誰かが自分を見て、嘲笑しているに違いないと思わずにはいられないものだから、つい周りを気にする仕草を取ってしまうのだ。 

 だからきっと、不審がられているにちがいない。

 それでも、大志はナイフ無しに散歩に行く気になれなかった。

 確かな力を手にしていることで得られる安心感の方が、警察に目を付けられるリスクに勝っていた。

 身支度を済ませると、大志は音もたてずに階段を降り、テレビの音が漏れ聞こえる居間の方へ警戒するような視線を向けた。

 それから音の間を縫うようにして玄関まで行き、何かに怯えるように靴に足を通し、最後までしっかりと履かずに玄関のドアに手をかけた。

 玄関の重い扉は、どれほど注意深く開いてもカチャリと音を立ててしまう。 

 ただ幸いなことに、居間ではテレビの音が場を支配しているので、多少音を立てても気づかれることは無さそうだった。

 大志はゆっくりと、ほんのすこしだけ開けた扉の隙間から、身体を滑らせるようにして外に出ると、両手でしっかりとドアハンドルを握って扉を閉めた。
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