第15話

文字数 1,986文字

 ナイフが見当たらない。尚子がそのことに気付いたのは、ナイフを棚に隠した翌日の夜だった。

 長女が蒼ざめた顔で帰宅し、心配する尚子を振り切って部屋に籠ってしまったことに、尚子はどうしようもない胸騒ぎを覚えた。

 なぜなのかはわからないけれど、その時あのナイフのことがふと頭に浮かんだ。

 尚子はキッチンに戻ると、テレビを見ている夫に気付かれないように静かに隅の棚を開き、出来るだけ音を立てないようゆっくり中を探った。

 ところが、どれだけ探してもあのナイフが見当たらないのだ。

 他のカトラリーや雑貨に埋もれてしまったのだろうか、そう思って一つ一つを外に出してみるが、全て出し終わっても、そこにナイフはなかった。

 キッチンカウンターに無造作に並べられたナイフやフォークを、尚子は呆然と見つめた。

 ほとんど空になった棚の奥に置かれた小さな蝋燭たちが、何故か妙に目についた。四本の小さな色付きの蝋燭たちだ。

 いつか誰かの誕生日の時に、ケーキ屋で貰ったものだろう。尚子の頭の中で、まだ小さかった頃の美月や大志の姿が生き生きと動きまわっていた。

 どうして今、こんなことを考えてしまうのだろう。考えようとして考えているのではない。勝手に頭にイメージが流れ込んでくるのだ。

 尚子はカウンターの縁を握りしめるように掴み、血液が濁流のように駆け巡る頭を落ち着けようとした。

「お、食器の整理か?」

 台所にやって来た夫が、呑気な声でそんなことをいった。

「うるさい!!」

 何も知らずに気楽なことを言う夫に、尚子は思わずカウンターを叩き、声を荒げてしまった。

 夫は、どうしたんだという表情でこちらを見ていたけれど、尚子はその姿と自分が見せてしまった態度に堪えきれなくなって、リビングを出た。

 ただ、勢いに任せて二階の寝室に向かおうとしたところで、足が止まった。逃げるように部屋へ戻った美月の血の気の引いた顔の記憶が、尚子の頭を休息に冷やしたのだ。

(ナイフ・・・、美月が持ってるの?)

 なぜか、そんな突飛な考えが頭をよぎった。

 どうしてそんなことを考えてしまったのだろう。根拠もなければ、そう考えるきっかけになることがあったわけでもない。ただ直感的に、そう思ったのだ。

 二階へ続く階段を昇った尚子の足は、自然と美月の部屋へ向かっていた。娘の部屋の扉の前で、尚子はしばらく立ち竦むようにして、扉に掲げられたネームプレートを眺めていた。

 その時、部屋の中でドスっという音がした。胸騒ぎを覚えた尚子はドアノブに手を掛けた。

「美月、入るよ!」

 ノックもせず、尚子は扉を開けた。そこには、灯りも点けず仕事着のままベッドの上にへたり込む美月の姿があった。

 呆然と一点を見つめていた美月は、突然の部屋の中へ入ってきた尚子の方へ、ゆっくりと視線を向けた。

 普段の美月なら、許可もなく部屋に入ってきた尚子に、家の外まで聞こえそうなくらいの大声で何の用かと詰め寄ってくるのに、今日はただじっと、蒼い顔で尚子の方を見つめるばかりだった。

「えっと・・・、勝手に入ってごめんね。あんまり顔色が悪そうだったから」

 尚子は取り繕うようにそんなことを言った。実際、美月の顔色の悪さを心配しているのは間違いないけれど、それよりも気になることがあった。ただ、どう切り出して良いのかわからない。

 ナイフを持っているのと、素直に聞くわけにもいかない。持っていない、ナイフって何の話と聞き返されれば、どう答えたらいいのだろう。

 ただもし、万が一にでも美月がナイフを持っていたとしたら、それはそれで、どうしたら良いのだろう。

 なんで大志のナイフを美月が?何のためにそれを持って行ったの?しかも仕事場に?

 止めどなく疑問が溢れてくる。もし美月の手にナイフがあったのなら、この疑問を全てぶつけてしまいそうだ。

 言うべき言葉を失い、尚子はただ美月を見つめる事しか出来なかった。美月の方は少し落ち着いたのか、尚子から視線を逸らすと、一度大きく深呼吸をした。

「心配かけてごめん、ちょっと気分が悪かっただけ。忙しかったから。ちょっと一人にして」

 そう言ってふらふらと立ち上がると、尚子の方に手を置いて、外へ出るよう促した。

「でも、まだ顔色も良くなってないし、ご飯も食べてないでしょ?着替えたら一旦降りてきなさい」

 不安に苛まれながら、出来る限り優しい言葉をかける尚子を、美月は何も言わず部屋の外へ出した。

 いつの間にか自分より力が強くなった娘に押し出されるように、尚子は部屋を出された。

 美月は尚子が完全に部屋から出たのを確認すると、何も言わずに扉を閉めた。

 尚子は扉をノックしようとしたけれど、反応が返って来ないのは明らかだったし、何より手を動かす勇気が出てこなかった。
 
 尚子はなんだか色々なものを諦めた心で、半ば放心状態のまま、自分の寝室へと戻っていった 。

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