第3話

文字数 2,452文字

 外は外灯の灯りが近くにあるおかげで、夜中でも道路の先の方まで見通すことが出来た。

 けれど、住宅街に整然と配置された家々と、そこに点在する外灯の適切な配置のあまりの隙の無さは、いつも大志を恐怖させた。

 夜は暗いという事実すら許容できない窮屈さが、安全と安心を誇る住宅地で不気味に嗤う。

 大志はそれを振り切るように家から離れて、出来る限り暗い方へ暗い方へと歩いていった。

 その道すがら、大志は数本の木々が道沿いに配されている通りに出た。ここは住宅街への入口にあたる比較的大きな通りで、植えられているのは桜の木々だった。

 春先には見事な花を咲かせ、見る人の目を楽しませる桜の木々達も、今はすっかり緑の葉だけになっている。

 大志が少しだけ手を伸ばすと、垂れ下がった桜の枝の一つに手が届いた。 

 大志はそれを引き寄せて自分の目の前まで持ってこようとしたが、枝はそれに抗うように身を固くした。

 もっとしなやかに曲がるものだと思っていた大志は、それ以上枝を引き寄せるのを諦め、手を離した。

 大志の手から離れた桜の枝は、その葉を揺らしながらもと居たところへ戻っていった。

 堂々とその場に立ち続ける桜の木を見ながら、大志は自分が桜の木にも置いていかれたような気持ちになって、しばらくはただぼんやりとそれを眺めていた。

 5月になれば、桜の木も変わっていく。ただ花を咲かせるだけでは生きてはいけないから、美しさを脱ぎ捨てて普通の木の姿へと装いを変える。 

 そうして止まらない時間の流れに寄り添うようにして、生き残ろうとしているのだ。

 桜の木だけではない、他の多くのものが、時間の大きな流れの中で、時に流されながら、時に寄り添いながら、どうにか置いていかれることなく生きているのだ。

 流されることすら出来ない大志を置いて、桜も、街も、両親も姉も。

 ただ、流されるだけの自分を拒みながら、自分だけの流れを生み出す力もなく、周りを流れていくその他一切のものを横目で見つめるばかり。それが今の大志だ。

 そんな自分は、きっとそのうち、何か大きなものに押しつぶされて時間の川底に沈んでいくに違いない。

 あの桜の木は、きっと置いていかれたくなかったから、大志の思う通りに曲がってくれなかったのだ。大志はなんだか、桜の木に悪いことをしたような気がした。

 寂しさに蓋をして、大志は背中を丸めたまま夜の住宅街を歩いた。外灯の灯りもようやく落ち着いて来て、随分と歩きやすくなってきた。

 学校に通っていたころから、大志は昼間の太陽が照り輝く中を歩くことが苦手だった。

 あの力強く燃える太陽には、人の心を急き立てる力があるように思えてならなかった。

 太陽の眩しすぎる光は、自分に強く明るく、逞しく生きることを強いているような気がして、とてもその下でまともに歩いていられる気がしなかった。

 こうしてすっかり日が落ちて、辺りが闇に沈んだ頃にこそこそと動いている方が、どれほど居心地がいいことだろう。どれほど安心できることだろう。

 のそのそと道を歩きながら、大志は身体の中の澱んだ空気を全て吐き出すように、深く息を吐いた。

 大志の行く先に、公園の入り口が見えてきた。入り口から向かって左の少し奥まったところには、真新しい公衆トイレが設置されていた。

 綺麗に掃除された公衆トイレにはLEDライトが煌々と照っていて、夜中でも安心して用が足せそうだった。

 トイレに対して強迫的なまでの清潔感と安心を求めてしまう心情は、大志にも多少は理解できた。

 トイレの最中は人間の一生の中でも1、2を争う無防備な時間を過ごすことになるのだから、安全を求める気持ちもよくわかる。

 大志はいつもこの公園を真っ直ぐに突っ切って、公園の反対側の入り口からマンションの林立する中を歩いて家まで戻っていた。

 入り口の傍には公園の敷地内で球技をしないようにと書かれた白い看板が、真新しく書き直された姿で堂々と立っていた。

 けれど大志は、だれもこの看板に書かれた警告を聞かず、好き勝手に野球だのサッカーだの、様々な球技の興じているのを知っている。

 堂々たる身なりと好対照な、虚しいまでに力のない警告の看板を横目に、大志は公園の真ん中を歩いていった。隅の方をこそこそと歩かずに済むのは、夜中の特権だった。

 右手にはいくつかの遊具が、そして左手には公衆トイレが近づいてきた。

 その時ふと、大志はトイレの陰で何かがごそごそと動いているのに気付いた。

 無視してそのまま公園を出て行くことも出来たのに、なぜか大志はそれに引き寄せられるように向かっていた。

 ポケットのナイフに無意識に手が伸びていた。

 大志は取り出したバタフライナイフの刃を出し、自分でも止めることのできないままトイレの陰で蠢く何かに向かった。

 トイレの正面から壁で隠されたトイレの裏手を恐る恐る覗くと、そこには着古した灰色のスウェット姿の老人がいた。

 正座で直接地面に座り、だらしない恰好には不釣り合いなほど背筋を綺麗に伸ばし、トイレとは反対方向にある金網のフェンスの向こうを、真っ直ぐに見据えていた。

 その毅然とした佇まいは、まるで今から大いなる何者かを自分の傍に迎え入れる準備をしているように見えた。首のあたりで重ねられた両手が祈りのポーズにも見えた。

 どこか人を惹きつけるその姿に、大志は惹き込まれ、いつしかじっとその老人を見つめていた。

 大志は無意識に、手にしていたバタフライナイフをまるで御守りか何かのように一層強く握りしめた。

 その時だ、大志の姿に気づいたのか、老人がこちらへ顔を向けた。

 老人の視線は狼狽える大志の姿をしっかりと捉えた。

 公衆トイレの隣に設置された外灯の光を正面から受けた老人の灰白色に淀んだ瞳に、大志の姿は真正面からしっかりと映り込んでいた。

 無言でこちらを見据える老人に大志の思考は混乱と停止を繰り返し、ただその手に握ったナイフの柄の細かな凹凸だけが、遠くなりそうな大志の意識をその場に繋ぎとめていた。
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