第10話
文字数 2,691文字
睦月がこの塾で受講している科目のうち、栗原が受け持つクラスは英語だった。
英語は美月も指導できる教科だったので、彼女は半ば強引に睦月を自分のクラスに組み入れた。
栗原は良い顔をしなかったけれど、何かを察したのか、そのことで美月を咎めることはなかった。
美月は、栗原と睦月の接点ができる限りなくなるように努めた。
クラスだけでなく、栗原の勤務時間も把握して、睦月と相談しながらできる限り栗原と顔を会わせないスケジューリングをした。
そのために、時々塾のそばにあるカフェに睦月と二人で訪れることもあった。
そんなときには、栗原の悪口はもちろん、進路の相談や将来の目標、もっと他愛のない話もした。
睦月はおとなしい印象の子だったけれど、話してみると思いのほか喋ることが好きなようで、自分のことや学校のこと、家族のことまで話してくれた。
だから美月は、塾の終わりや、時には休日に、睦月を誘ってカフェなどを訪れた。そして勉強や進路の相談にかこつけて色々な話をした。
両親とも働いていて、そこそこ稼ぎのいい仕事についている。住んでいる場所もこの塾の近くのそれなりに値の張るマンションで、そこで囲い込まれるように暮らしているのだと、なぜか少し自嘲気味に睦月は語った。
愛が深いんだねと、美月は少し言葉に困りながらそう返した。かもしれませんねと答えた睦月は、草臥れているように見えた。
両親からは、特に勉強をしろと言われることもなく、学業の方面は自由にさせてもらっているはずなのに、睦月はなんだかとても息苦しいのだと言った。
「多分、うちは両親とも△△高校卒業だからだと思います。私が入れなかった」
睦月が口にしたのは、塾の近くにある県内屈指の公立の進学校の名だった。
実は美月もそこの卒業生で、栗原もそうだった。というより、栗原が好んでその高校の卒業生を講師として雇い入れているというのが実際のところなのだけれど。
両親ともその高校を卒業しているのに、自分はそこに入れなかったことに、睦月はコンプレックスを感じているのかもしれない。
睦月は塾での成績は群を抜いていいけれど、通っている高校はもう少し天神に近い場所にある高校だった。
進学校といえば進学校だけれど、学力のレベルは様々で、△△高校のような一様に頭の良い生徒ばかりがいるところではない。
ただ、美月の塾には△△高校からも何人か生徒が通っているものの、睦月はそこの生徒たちと比較しても遜色ないか、それ以上の成績を修めている。
美月は少しでも睦月の慰めになればと思い、その事実を睦月に教えた。
「そうなんですね、ありがとうございます」
睦月の表情はほんの少し明るくなった。ただ、それでも何かが引っかかっているようなさみし気な表情は消えなかった。
大丈夫?と問うた美月に
「その学力、高校受験したときに発揮出来たらよかったんですけどね」
と睦月は言った。
「これからこれから、米原さんなら△△高校の生徒より全然上まで行ける。私の高校の頃より断然学力あるよ、間違いなく」
励ましになるかはわからないけれど、美月はそう言って、丁度店員が持ってきたコーヒーを睦月の前に置いた。
「そうですか?」
少し照れたように微笑んだ睦月は、さっきより表情が明るかった。
「うちのもさ、米原さんみたいにちゃんと学校行ってくれたらいいんだけど」
話の流れで、美月は弟の大志のことを思わず口にしていた。
「うちのも?弟さんか妹さんですか?」
「あ、ごめん。へんなこと言っちゃった。気にしないで」
美月はそう言って誤魔化したけれど、睦月が綺麗な目でまっすぐこちらを向いたせいなのか、そこで話を打ち切ることが出来なかった。
「米原さんより一つ年上で、もう高校三年生になる弟がいるんだけどね、二年生に進級したころに学校に行かなくなって、ずるずると今に至ってるんだよね」
「きっと、行けなくなった理由があるんだと思います。弟さんが一番辛い思いをしてると思いますよ」
睦月はそう言って美月の弟のことを庇った。多分、美月のことも慰めてくれているのだろう。そう、美月は思った。
「ありがとう。まぁ、わかってはいるんだけどね、わかってはいるんだけど」
「心配ですよね、弟さんの将来がどうなるのか」
美月の心の内側を見透かしたように、睦月はそう言って美月を慰めた。
「なんだか、愚痴になっちゃった。ごめんね」
そう言って、美月は自分のスマートフォンに入った弟の写真を睦月に見せた。
「これを撮ったときには、もう学校に行ってなかったから、なんか暗い顔してるでしょ?もう一年以上、大声で笑ってるところ見たことないんだよね。昔はすごくおしゃべりで、明るかったんだけど」
そんなことまで口にしていた。
家族のプライベートなことだから、睦月だって聞かされても困るだろう。そんな思いとは裏腹に、美月は気持ちを抑えきれずに語りだした。
「大志が、あ、大志はこいつの名前ね。大志が今どうしたいのか、わかりたいのに、あいつなんにも話してくれない。今は私と目も合わせてくれないんだよね。避けられてるっていうか、嫌われてるのかな」
きついことばっかり言い過ぎたかも。そう言って、美月は気が付けばため息をついていた。
「私があいつに届けてやれる言葉って、結局私の中の常識とか、必要だと思っていることとか、そこを通してしか届けられないから。今のあいつとは噛み合わないのかもしれない。だから避けられちゃうのかな」
睦月はそんな美月の手にそっと自分の手を重ねた。
「相手を思いやっても、出てくる言葉が空回りしたり、届かなかったり、相手が受け取ってくれなかったりすることってありますよね。私も、そんなときにどうしたらいいのかはわからないから、あんまり役に立つことは言えないけど、でも大丈夫だと思います。思い続けることをまだやめてないんだったら、きっと。あ、根拠も無いのに言っちゃうのもどうなのって感じですよね」
睦月は奥ゆかしく笑った。その仕草に美月は愛おしさを感じつつ、どこか心強さも感じた。
睦月の仕草とその言葉に、美月は目の奥に暖かくこみあげてくるものに耐えながら、ありがとう、と言った。
「なんにしたって、こいつの人生だし、私にできるのは見守って、たまに余計な事かもしれないけど、あれこれ言ってやることくらいだよね。まぁ、言い過ぎない程度に」
「弟さん、目を離してないよってメッセージを送り続けるだけでも、とても心強く思ってる筈ですよ」
「だといいなぁ。こっち見んなよとか、心の中で思ってたりしてね」
美月も睦月も、顔を見合わせて笑った。
英語は美月も指導できる教科だったので、彼女は半ば強引に睦月を自分のクラスに組み入れた。
栗原は良い顔をしなかったけれど、何かを察したのか、そのことで美月を咎めることはなかった。
美月は、栗原と睦月の接点ができる限りなくなるように努めた。
クラスだけでなく、栗原の勤務時間も把握して、睦月と相談しながらできる限り栗原と顔を会わせないスケジューリングをした。
そのために、時々塾のそばにあるカフェに睦月と二人で訪れることもあった。
そんなときには、栗原の悪口はもちろん、進路の相談や将来の目標、もっと他愛のない話もした。
睦月はおとなしい印象の子だったけれど、話してみると思いのほか喋ることが好きなようで、自分のことや学校のこと、家族のことまで話してくれた。
だから美月は、塾の終わりや、時には休日に、睦月を誘ってカフェなどを訪れた。そして勉強や進路の相談にかこつけて色々な話をした。
両親とも働いていて、そこそこ稼ぎのいい仕事についている。住んでいる場所もこの塾の近くのそれなりに値の張るマンションで、そこで囲い込まれるように暮らしているのだと、なぜか少し自嘲気味に睦月は語った。
愛が深いんだねと、美月は少し言葉に困りながらそう返した。かもしれませんねと答えた睦月は、草臥れているように見えた。
両親からは、特に勉強をしろと言われることもなく、学業の方面は自由にさせてもらっているはずなのに、睦月はなんだかとても息苦しいのだと言った。
「多分、うちは両親とも△△高校卒業だからだと思います。私が入れなかった」
睦月が口にしたのは、塾の近くにある県内屈指の公立の進学校の名だった。
実は美月もそこの卒業生で、栗原もそうだった。というより、栗原が好んでその高校の卒業生を講師として雇い入れているというのが実際のところなのだけれど。
両親ともその高校を卒業しているのに、自分はそこに入れなかったことに、睦月はコンプレックスを感じているのかもしれない。
睦月は塾での成績は群を抜いていいけれど、通っている高校はもう少し天神に近い場所にある高校だった。
進学校といえば進学校だけれど、学力のレベルは様々で、△△高校のような一様に頭の良い生徒ばかりがいるところではない。
ただ、美月の塾には△△高校からも何人か生徒が通っているものの、睦月はそこの生徒たちと比較しても遜色ないか、それ以上の成績を修めている。
美月は少しでも睦月の慰めになればと思い、その事実を睦月に教えた。
「そうなんですね、ありがとうございます」
睦月の表情はほんの少し明るくなった。ただ、それでも何かが引っかかっているようなさみし気な表情は消えなかった。
大丈夫?と問うた美月に
「その学力、高校受験したときに発揮出来たらよかったんですけどね」
と睦月は言った。
「これからこれから、米原さんなら△△高校の生徒より全然上まで行ける。私の高校の頃より断然学力あるよ、間違いなく」
励ましになるかはわからないけれど、美月はそう言って、丁度店員が持ってきたコーヒーを睦月の前に置いた。
「そうですか?」
少し照れたように微笑んだ睦月は、さっきより表情が明るかった。
「うちのもさ、米原さんみたいにちゃんと学校行ってくれたらいいんだけど」
話の流れで、美月は弟の大志のことを思わず口にしていた。
「うちのも?弟さんか妹さんですか?」
「あ、ごめん。へんなこと言っちゃった。気にしないで」
美月はそう言って誤魔化したけれど、睦月が綺麗な目でまっすぐこちらを向いたせいなのか、そこで話を打ち切ることが出来なかった。
「米原さんより一つ年上で、もう高校三年生になる弟がいるんだけどね、二年生に進級したころに学校に行かなくなって、ずるずると今に至ってるんだよね」
「きっと、行けなくなった理由があるんだと思います。弟さんが一番辛い思いをしてると思いますよ」
睦月はそう言って美月の弟のことを庇った。多分、美月のことも慰めてくれているのだろう。そう、美月は思った。
「ありがとう。まぁ、わかってはいるんだけどね、わかってはいるんだけど」
「心配ですよね、弟さんの将来がどうなるのか」
美月の心の内側を見透かしたように、睦月はそう言って美月を慰めた。
「なんだか、愚痴になっちゃった。ごめんね」
そう言って、美月は自分のスマートフォンに入った弟の写真を睦月に見せた。
「これを撮ったときには、もう学校に行ってなかったから、なんか暗い顔してるでしょ?もう一年以上、大声で笑ってるところ見たことないんだよね。昔はすごくおしゃべりで、明るかったんだけど」
そんなことまで口にしていた。
家族のプライベートなことだから、睦月だって聞かされても困るだろう。そんな思いとは裏腹に、美月は気持ちを抑えきれずに語りだした。
「大志が、あ、大志はこいつの名前ね。大志が今どうしたいのか、わかりたいのに、あいつなんにも話してくれない。今は私と目も合わせてくれないんだよね。避けられてるっていうか、嫌われてるのかな」
きついことばっかり言い過ぎたかも。そう言って、美月は気が付けばため息をついていた。
「私があいつに届けてやれる言葉って、結局私の中の常識とか、必要だと思っていることとか、そこを通してしか届けられないから。今のあいつとは噛み合わないのかもしれない。だから避けられちゃうのかな」
睦月はそんな美月の手にそっと自分の手を重ねた。
「相手を思いやっても、出てくる言葉が空回りしたり、届かなかったり、相手が受け取ってくれなかったりすることってありますよね。私も、そんなときにどうしたらいいのかはわからないから、あんまり役に立つことは言えないけど、でも大丈夫だと思います。思い続けることをまだやめてないんだったら、きっと。あ、根拠も無いのに言っちゃうのもどうなのって感じですよね」
睦月は奥ゆかしく笑った。その仕草に美月は愛おしさを感じつつ、どこか心強さも感じた。
睦月の仕草とその言葉に、美月は目の奥に暖かくこみあげてくるものに耐えながら、ありがとう、と言った。
「なんにしたって、こいつの人生だし、私にできるのは見守って、たまに余計な事かもしれないけど、あれこれ言ってやることくらいだよね。まぁ、言い過ぎない程度に」
「弟さん、目を離してないよってメッセージを送り続けるだけでも、とても心強く思ってる筈ですよ」
「だといいなぁ。こっち見んなよとか、心の中で思ってたりしてね」
美月も睦月も、顔を見合わせて笑った。