第36話

文字数 2,394文字

 残された悠人は、まだ微かに睦月の肩の感触が残る掌を、じっと見ていた。

「気持ちわる・・・」

 純季がぼそりと呟いた。

「は!?気持ち悪くねぇよ。男子高校生なら健全な感覚だろうが」

 健全な感覚なのかはわからないけれど、悠人は少し大きな声でそう反論した。

 そしてはたと、純季に自分の頭の中を覗かれていたことに気付いて、顔が熱くなった。

「米原さんに触りたいんなら、ちゃんと付き合ってからにしろよ」

 純季は表情を変えずにそんなことを言った。そのことが余計に悠人の恥ずかしさを増長させた。

「そりゃ付き合いてぇよ。でも触りたいなら付き合えとか言うのやめろ」

 恥ずかしさで頭が混乱していたのか、悠人はうっかりそんなことを口走っていた。そのことに気づいたときには、もう言葉は悠人の口を離れた後だった。

「男子高校生なら健全な感覚なんだろ」

 純季がまた、無表情でそう言った。今度は少しだけ、言葉の中に呆れのニュアンスが含まれているような気がした。

「お前だってそういうこと考えてんだろ、普段から!」

 悠人がわんわんと喚きだしたところで、睦月が戻ってきた。

「お待たせ。楽しそうに話してたみたいだけど、何の話?」

 にこやかにそう尋ねて来た睦月。悠人は、純季が「健全な男子高校生の話です」と言おうとするのを遮って、早口で言葉を返した。

「ううん、大した話じゃないから。全然つまんない話。それより、もう行けそう?」

 ぐっと身を乗り出してきた悠人に少し驚いたような顔をしながら、睦月は、もう行けるよと答えた。

「お父さんにもウソついてたわけだから、ちょっとそこは怒られた。でも警察には、また後で一緒に謝りに行ってくれるって」

 そう言った睦月は、肩の荷が降りたような一層すっきりした顔を見せていた。

「でも今から行って、美月先生が家に居なかったらどうしよう。多分居るとは思うけど」

 少し不安げに、睦月は言った。

「美月先生と太志さんの親御さんは、共働きですか?」

 純季にそう尋ねられた睦月は、そこまでは聞いてないと答えた。

「でも大志さんは学校に行ってないって、美月先生から聞いてる。ただ家にはいるかもしれないけど、部屋に引き籠ってるみたいだから、応対してくれないかもしれない。先生のご両親が出てきたら、どう説明しようかな」

 睦月が口を結んで思案していると、純季が口を開いた。

「お母さんの方が出て来たなら、ややこしい説明しなくても大丈夫かもしれませんよ。米原さんは少なくともそっちには会ってる可能性があるんで」

「えっと、それってどういうこと」

 不意に純季にそう言われ、睦月は驚いたような顔をして尋ねた。

「あくまで俺の推測なんですけど」

 純季は睦月の方へ目を向け、話し始めた。

「大志さんが逃げて行った後に来た女性が、多分、大志さんの母親だと思います」

「え、そうなの?でもその人、私の両親が駆けつけるまで一緒に居てくれたけど、大志さんのことを気にしてる様子は無かったよ」

 戸惑いの表情を隠せないまま、睦月は言った。

「気にしたくても、出来なかったんだと思いますよ。あなたを襲ったのは自分の息子かもしれないって、さすがにそんなことは言えないし、気づかれたくもないと思います」

 それに、と、純季は悠人の方にも視線を向けながら話を続けた。

「さっき言った、近くのマンションに住んでる目撃者の人、その女性が大志さんに向かって言ってたそうです『こんなところで何して』って。見ず知らずの人間が公衆トイレの裏から出てきたところで、怪しく思うことはあっても声を掛けるなんてことは、あまり考えられない。それに、老人のために救急車を呼んだのはおそらくその女性でしょうけど、老人に付き添わずに逃げた大志さんを追いかけるなんていうのも不自然だ。普通なら救急車が来るまで老人の応急処置をするだろうし、まして通り魔かもしれない人間のことなんて、怖くて追いかけられない。よほど重要な知り合いか、身内でない限りは」

 純季は淡々とそう説明した。

「それと、その目撃者の人、叫び声は聞いてないって言ってました。もしその場に居合わせた女性が赤の他人なら、声くらい上げそうだと思います。でもそうじゃなかった。その女性に、ここで叫び声をあげてはだめだと無意識に思わせるくらい、大志さんと女性は近しい関係にあった。そう考えられます」

「それじゃあ、大志さんのお母さんは、まだ大志さんが私を襲ったって思ってるのかな?」

 睦月は不安そうにそう呟いた。悠人は何か彼女を安心させられる言葉は無いかと頭の中を探したけれど、情けないほど何も見つからなかった。

 仕方なく、助けを求めるように隣へ視線を向けると、それに気づいた純季が口を開いた。

「混乱はしてるかもしれませんね。もしニュースをチェックしてたなら、老人の事件については息子が襲ったわけじゃないとわかるかもしれません。それに、米原さんがその女性に自分を襲った人間の特徴を言った時、大志さんとは似ても似つかない相手を伝えたんですよね。冷静に考えれば、自分の息子は関係ないってわかると思います。でも情報がまだ何も入っていないのなら、きちんと説明した方がいいです。そのほうが安心してくれると思いますよ」

 大志さんがあの夜公園で何をしていたかは、本人に聞くしかないんでしょうけどと、純季は付け加えるように言った。

「やっぱり、そうだよね。うん、今すぐ行こう」

 決心した声で睦月は言った。

「俺らも一緒だから、大丈夫」

 悠人はここぞとばかりに、そう言って睦月を励ました。自分は本当に、ただ居るだけなのだけれど、それはそれだ。

「ありがとう、加賀美君」

 睦月の笑顔に心を掴まれた悠人は、無意識に顔がにやけてしまった。

 そんな悠人を横目に、純季は何も言わずさっさと休憩室を出て行こうとした。睦月もその後に続き、悠人も我に返ると、二人を追いかけるようにその場を後にした。
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