第13話

文字数 1,806文字

 今日の授業は午後九時で終了した。終業はいつもより一時間早かったけれど、美月は待ちきれなかった。
 
 急いで鞄に荷物を詰め込むと、一日の振り返りレポートもそこそこに、まだ残っている講師に挨拶をして、急いで部屋を後にした。

 一階に降りると、栗原はまだ部屋にいて、誰かと話し込んでいるよだった。

 声を掛けようにもそんな雰囲気ではなさそうだった。美月は諦めて、先に外で待つことにした。

 裏手の駐車場には、栗原夫妻の車が並んで停められていた。

 わざわざ別々の車で出勤してくるのかと思ったけれど、二人は別居中らしいと講師の間で噂になっていたから、無理もない。

 向かって右側には、栗原のアウディ。左側は妻のアルファロメオ。

 ぼんやりと二台の高級車を眺めながら、美月の手は自然とジャケットの内ポケットに伸びていた。

 そこから取り出したナイフは、まだ刃先が仕舞われたままになっていた。

 そう言えば、この刃ってどうやって取り出すんだろう。不意にそんなことを考えた。途端に、どうしようもない不安感が美月を襲った。

 別に、このナイフはただの御守りに持っているだけだ。使うつもりなんて毛頭ない。ただ何かあった時のために、せめて使い方くらいは知っておきたい。

 そんな思いに駆られてしまい、ただでさえ緊張に支配されていた美月は、もうそれを試さずにはいられなくなっていた。

 どうにか刃を取り出せないかとナイフをいじっていると、ようやく刃先が柄から数ミリほど顔を覗かせた。

 行けるかもしれない。そう思った時、鞄の中でスマートフォンが勢いよく振動した。

 驚いた美月は、慌てて近くにあったセメントの台座の上にナイフを置くと、スマートフォンを取り出した。

 見れば、塾に通う生徒の保護者からの着信だった。無視するわけにもいかず、美月は建物の影に隠れながら、それに応じた。

「もしもし?あ、お世話になっております。釘宮でございます」

 美月は早々に電話を切り上げたかったのだけれど、相手は要領を得ない愚痴のような言葉を美月にこぼし続け、電話を切るタイミングを与えなかった。

 いつ栗原がやってくるか、美月は気になって仕方がなかった。

 一方で、電話の内容が段々と生徒の個人情報に関わる話題になってきたことに気付いて、美月は内容を周りに聞かれないように、塾の建物から少しずつ人気の無い方へ離れていった。

 十分ほど話してようやく、保護者もすっきりしたようだった。御礼の言葉とともに、あっさりと電話を切ってくれた。

(戻らないと)

 美月はいつの間にか塾から離れた場所に自分が来ていたことに気付いて、慌てて帰ろうとした。

 ふと、建物の方角から何事か言い争うような声が聞こえた。

(もう来たのかな。でも、誰かいる?)

 その時だった。塾の方から男の叫ぶ声が聞こえた。誰の声か、美月にはすぐにわかった。栗原だ。

 慌てて塾へ戻った美月は、アルファロメオの影から恐る恐る建物の方へ目を向けた。するとそこには、栗原が苦悶の表情を浮かべて倒れていた。

 腰の辺りからはかなりの量の血が流れていて、そこを必死に押さえながら、微かに痙攣するように栗原は身体を揺らしていた。

 その光景は美月の理解の範疇を超えていた。恐ろしさに後退る美月は、ふと、車の向こう側で黒い影が蠢いているのに気が付いた。

 目をやると、黒いウィンドブレーカーのようなものを纏った影が、じっとこちらを見ていた。蒼ざめたその顔は、間違いなく美月の弟、大志のそれだった。

(大志、こんなところで何やってるの!?)

 そう言おうとして、言葉が出てこなかった。美月もじっと大志を見つめるばかだった。

 その時、駐車場に通じる建物の出入り口が開く音がした。美月は反射的に身を屈めて車の影に隠れた。

 そしてふと、ナイフをどこかに置き忘れたことに気が付いた。この近くに置いたはずだと、辺りを見回してみたけれど、見当たらなかった。

「おい!」

 建物の方から声が飛んだ。聞きなれた男性講師の声だった。美月はびくりと肩を震わせた。

 硬直した身体から血液が吹き出しそうなほど、血流が全身を駆け回っていた。

 ただそんな状況でも、大志が男性講師の声に驚いて、夜の闇の中へ逃げ出していったのはわかった。

 男性講師が狼狽えながらも救急車を呼ぼうとしている。美月はその隙に、精一杯の力でその場から離れた。

 鞄は辛うじて脇に抱えていたけれど、ナイフを探す余裕はなかった。
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