第16話

文字数 2,439文字

「聞いてた~?」

 先生が華奢な腰に手をあてながら、苦笑交じりに悠人にそう問うてきた。

「あ・・・、すいません、聞いてないです」

 とぼけたような、しかしどこか照れたような笑みを浮かべつつ、悠人は悪びれることもなくそう言ってのけた。

 そんな悠人に、先生も周りの生徒たちも一斉に声を上げて笑った。

「聞いとこうよぉ」

 先生は呆れた口調でそう言った、でもなんとなく楽しそうにも見えた。周りの生徒たちも同じようにこのやりとりを楽しんでいる。そう感じられて、悠人は安心した。

 これでいい、こうやって周りが自分を笑って楽しんでくれている時が悠人は一番安心するのだ。

 ひりついた空気や険悪な雰囲気が何より嫌いな悠人は、こうして自分の心を守る。

 道化を演じるとか、言葉で表現すればとてもシンプルなことなのだけれど、自分にとってみれば何よりも尊い仕事を、とりあえず今日も如才なく遂行出来た。

 そのことに、悠人は束の間の満足感と安堵感を得ていた。

 それにこういう振る舞いを心掛けていれば、大抵の人間が悠人を可愛げのあるやつだと思ってくれるに違いない。

 人畜無害で面白味があって、敵視したり、何かの標的にするようなやつではない、そう思ってくれるはずだ。

 そんなことを考えながら、悠人はさりげなく教室を見回した。みんなまだ愉快そうに笑っている。

 悠人の右斜め前の席のさらに右隣の女子生徒は、今授業をやってる先生とは折り合いがよくない。教室では人目をはばかることなく先生の悪口を言っている。

 けれど、今は彼女も楽しそうに笑っている。どうにかこのクラスは持ちそうだと悠人は安堵した。

 教室はまだざわついていたけれど、先生が2、3度机を軽くたたいてどうにかそれを鎮めた。それから、今度は悠人とは別の生徒を指名した。

 指名された生徒が問題なく先生の質問に答えるのを横目で見ながら、悠人はもう一度教室を見回した。

 そして悠人から2人ほど隔てた左隣の席が空いているのを、不安な気持ちで少しだけ長く見つめた。

 その席は、米原睦月という女子生徒の席だった。体調がすぐれないからと、この2,3日学校に来ていない。

 体調がすぐれないという言い方も曖昧な言い回しだ。
 
 一体、身体のどの部分にどんな不調を来しているのだろうか、仮病の言い訳が見当たらないときに、思わず言ってしまいそうな言葉だ。

 睦月のいない空の席を見つめたまま、悠人は思った。

 睦月の仮病を疑っているわけではない。ただ、体調が悪いという汎用性の高い言葉が、深い霧のように睦月の姿を覆い隠しているような気がしたのだ。

 その霧を払って進んでいった先に、何か人には隠しておきたい苦悩を抱えたまま、睦月が行き場もなく佇んでいる姿が、なぜか悠人には想像された。

 もちろん、ただそんな予感がするだけで、なんら根拠のある話では無い。

 無いのだけれど、睦月の机に目を向けるたび、悠人はその場所が未だに空席である理由を様々に想像した。

 そして、普段から口数の少ない睦月が、その存在ごと周囲とのコミュニケーションから離脱しようとしているのではないかと不安を感じた。考えすぎだと、頭の中の別の場所でそう理解しつつ。

 要するに、悠人は睦月のことが気になるのだ。いつも静かで、落ち着いていて、誠実な彼女が。

 周りに誰かがいなければ寂しくて仕方のないような自分とは真逆の、一人でいても寂しくない決然とした雰囲気を纏う睦月が、悠人には眩しかった。 

 けれど、悠人が睦月に魅かれる理由はそれだけではなかった。

 それは今でも忘れない、彼女と同じクラスになった高校2年生の4月、最初の授業を終えた時のことだった。

 まだ新しいクラスの雰囲気を、生徒同士がお互いに掴みかねているなか、悠人はどうにかその場の緊張を和らげて、みんなが楽しくやっていけるように心を砕いた。

 いつもより教室の空気は張っていたけれど、それも少しずつ緩んでいって、授業が終わるころにはそれなりに穏やかな空気が教室を満たしていた。

 すこし疲れたけれど、悠人は満足して授業を終えた。それから次の授業が始まるまでの間、少し外の空気を吸おうと席を立った。

 その時、どこからか “お疲れさま” という声が聞こえた。まるで、クラスの雰囲気を和ませようと苦闘した悠人の労をねぎらうような、美しくも優しい響きだった。

 声の主を求めて悠人が振り返ると、そこには席に着いたまま、顔だけをこちらに向けた睦月が、授業中には見せなかった笑顔を悠人に見せていた。

「あぁ、ありがと・・・」

 無意識に礼を言った悠人にもう一度笑みを見せると、睦月は机の方へ視線を落として、次の授業の準備のために机の中から教科書やらノートやらを取り出し始めた。

 見抜かれてたなと、悠人は思った。いや、それ以上に、理解されているという喜びの方が強かったのかもしれない。

 道化を引き受けることに辛さが無いわけではない。

 けれど、これは自分が好きでやっていることだから、別に誰かに辛さを理解してもらいたいと思ったことはなかった。

 それなのに、実際にこうして自分の苦しさを理解してくれる人に出会うと、悠人は自分でも不思議なほど心が動かされた。
 
 そんなことがあってから、悠人は睦月のことが気になるようになっていた。

 でもその言葉は、悠人の気持ちを正しく表現するには足りないような気がした。

 授業中、何度となく彼女の方に視線を寄越して、彼女が気付くか気付かないかのうちにまた視線を逸らすなんていう、小学生のようなことを繰り返したりしていた。

 休み時間になれば、彼女が手にしている本のタイトルを、こっそりスマートフォンのメモに保存して、後でその本を図書館で手に取ってみたりもした。

 もっとも、活字を追い続けることがなにより苦手な悠人は、大抵の場合数ページほど本を捲って、そして読むのを断念して棚に戻したりしていた。

 ただ、それらの本に少し目を通すだけでも、悠人は睦月に近づけたような気がしていた。
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