第37話
文字数 2,362文字
昨日、そして今日と、母親が仕事を休んだ。そして、姉もこの二日間、仕事を休んでいる。二人が一日中ずっと家にいると思うと、大志は部屋を出ることすら躊躇してしまう。
大志はベッドにうずくまったまま、壁に耳を押し当てた。美月もほとんど部屋から出ていないはずだ。
隣り合う姉の部屋の様子が気になり、大志は息を殺して壁の向こうの音に耳を澄ませた。
けれど、壁の向こうからは物音ひとつしない。足音も、布団の擦れる音すらも。
その静けさに反比例するように、大志の頭の中では、一昨日見た光景が喧しく、何度も再現され続けていた。
ナイフが自分の手元に無い。一日経っても、それは大志にとって無視できない現実として心にこびり付いていた。
吐き気をもよおすほどの心のざわつきに耐えきれなくなった大志は、観念してナイフを探しに行くことにした。
ナイフを落としたのは昨日のことなのだから、もうすでに、誰かに拾われているかもしれない。
でも運が良ければ、昨日の散歩道のどこかに落ちているかもしれない。今はそんな楽観的な見方に縋るしかなかった。
夜になり、はやる気持ちを抑えきれない大志は、いつもの時間より早く家を出た。姉もまだ帰って来ていない。鉢合わせしないことを祈りながら、大志は抜け出すように外へ出た。
今日はいつものルートを反対側から歩いてみることにした。理由は、出来るだけあの公園には近づきたくなかったから。
それに、公園の出口の辺りまでは確実にナイフを手にしていたことは覚えている。だから、落としたとすればその公園の出口から家に着くまでの間に違いない。
だからいつもの散歩道を逆から歩いて、慎重に探していれば、すぐにナイフが見つかるはずだ。誰かに拾われていない限り。
大志のいつもの散歩道は、実は姉の勤務する塾のすぐそばを通るコースだった。比較的明るいけれど、大志が歩く時間帯にはすっかり人通りも絶えていて、お気に入りのルートだ。
でも今の時間帯は、まだ塾を終えたばかりの中高生がそこかしこに残っている。そういう連中と散歩中に出くわすのは具合が悪いし、何より姉本人と出遭ってしまう可能性だってあるのだ。
それでも、大志はここを通るしかなかった。とにかく一刻でも早く、ナイフを見つけて回収しなければ。その気持ちで大志の頭の中はいっぱいだった。
そんなことを思いながら歩いていると、姉の勤める塾が見えて来た。大志は一度立ち止まると、手前の建物の影に隠れて塾の出入り口付近の様子を伺った。
電気はまだ点いているけれど、生徒たちの姿はない。大志は、もう授業の時間は終わったのかもしれないと安堵しつつ、それでも慎重に建物に近づいた。
その時、塾の裏手の方で何やら言い争う声が聞こえた。大志は身体を震わせてその場に固まってしまった。
ただ、なぜか妙にその声が気になり、嫌な予感がしつつも、いつの間にかその声のする方へ歩みを向けていた。
暗い裏通りの方へ大志が一歩ずつ進んでいる間も、口論の声は絶え間なく響き、むしろ一層大きくなっていた。
それは男と女の声で、何やら揉めているようだった。でもその内容までは聞こえてこない。ただ、女性の声が段々とヒステリックになっているのはわかった。
他人同士の感情のぶつけ合いに恐怖と嫌悪感を抱く大志には、耳を塞ぎたくなるような状況だった。にも関わらず、足だけはその場所へ向かって動いていた。
その時だった。空気を裂くような男の叫び声が、裏通りにこだました。
竦み上がるような恐怖を感じながら、大志が声のした方へ足を進めると、塾の建物の裏側に出た。暗い裏路地に、白色LEDのランプが異様な明るさを保ったまま漏れ出ている。
大志が恐る恐るそこへ近づこうとした時、目の前に停められていた二台の車の向こう側で、何かが動いた。
大志が目をやると、車に遮られたわずかな灯りの向こうに、その何かの姿が見えた。
姉の美月だった。蒼ざめた顔でこちらを見つめる美月に、大志は何も言葉を掛けることが出来なかった。
ここは姉の職場なのだから、こうしてばったり出くわすことだってあり得るのだ。出会いたくはなかったけれど・・・。
ふと、美月の視線が建物の方へ向いた。大志もそれにつられるように、同じ方向へ目をやった。
そこには、腰の辺りを手で押さえながら苦悶の表情を浮かべる男が、コンクリートの地面に赤い血を広げながら倒れていた。
男と大志の間には外国製の高級車が行く手を塞ぐように停められていて、大志はその陰から男の様子を見ていた。
大志の頭のなかで、昨日の光景がフラッシュバックした。同時に、狼狽する美月の姿と目の前で苦しむ見知らぬ男性の姿とが、おかしな線で結びつけられた。
その時、悶え苦しむ男のすぐ向こう側に見える扉から、誰かが出てくるのが見えた。
それに気づいた大志は、逃げるようにその場から去った。男のことを気遣ったり、救急車を呼ぶ余裕などなかった。
その夜からずっと、大志は部屋から外へ出ていない。
しばらく壁に頭を付けていたけれど、物音ひとつ聞こえない。もしかしたら、姉は部屋にいないのかもしれない。
いや、今日姉が部屋を出た様子はなかったから、まだ中にはいるはずだ。大志はさらに強く壁に耳を押し当てた。
姉は強い人だ。そして正直に言って、姉のことは苦手だ。何より自分みたいな情けない人間が、一人前に強い姉のことを心配する資格なんて無い。
そんなことを思いながら、それでも大志は、あの夜、塾の建物の裏手で見た姉の、蒼く弱り切った顔を心の中から拭い去ることは出来なかった。
その時だった。唐突に玄関のチャイムが鳴った。こんな時間に来客だろうか、それとも宅配便?どちらにしても、母親が応対するだろうと、大志は構わず壁に耳を当て続けた。
大志はベッドにうずくまったまま、壁に耳を押し当てた。美月もほとんど部屋から出ていないはずだ。
隣り合う姉の部屋の様子が気になり、大志は息を殺して壁の向こうの音に耳を澄ませた。
けれど、壁の向こうからは物音ひとつしない。足音も、布団の擦れる音すらも。
その静けさに反比例するように、大志の頭の中では、一昨日見た光景が喧しく、何度も再現され続けていた。
ナイフが自分の手元に無い。一日経っても、それは大志にとって無視できない現実として心にこびり付いていた。
吐き気をもよおすほどの心のざわつきに耐えきれなくなった大志は、観念してナイフを探しに行くことにした。
ナイフを落としたのは昨日のことなのだから、もうすでに、誰かに拾われているかもしれない。
でも運が良ければ、昨日の散歩道のどこかに落ちているかもしれない。今はそんな楽観的な見方に縋るしかなかった。
夜になり、はやる気持ちを抑えきれない大志は、いつもの時間より早く家を出た。姉もまだ帰って来ていない。鉢合わせしないことを祈りながら、大志は抜け出すように外へ出た。
今日はいつものルートを反対側から歩いてみることにした。理由は、出来るだけあの公園には近づきたくなかったから。
それに、公園の出口の辺りまでは確実にナイフを手にしていたことは覚えている。だから、落としたとすればその公園の出口から家に着くまでの間に違いない。
だからいつもの散歩道を逆から歩いて、慎重に探していれば、すぐにナイフが見つかるはずだ。誰かに拾われていない限り。
大志のいつもの散歩道は、実は姉の勤務する塾のすぐそばを通るコースだった。比較的明るいけれど、大志が歩く時間帯にはすっかり人通りも絶えていて、お気に入りのルートだ。
でも今の時間帯は、まだ塾を終えたばかりの中高生がそこかしこに残っている。そういう連中と散歩中に出くわすのは具合が悪いし、何より姉本人と出遭ってしまう可能性だってあるのだ。
それでも、大志はここを通るしかなかった。とにかく一刻でも早く、ナイフを見つけて回収しなければ。その気持ちで大志の頭の中はいっぱいだった。
そんなことを思いながら歩いていると、姉の勤める塾が見えて来た。大志は一度立ち止まると、手前の建物の影に隠れて塾の出入り口付近の様子を伺った。
電気はまだ点いているけれど、生徒たちの姿はない。大志は、もう授業の時間は終わったのかもしれないと安堵しつつ、それでも慎重に建物に近づいた。
その時、塾の裏手の方で何やら言い争う声が聞こえた。大志は身体を震わせてその場に固まってしまった。
ただ、なぜか妙にその声が気になり、嫌な予感がしつつも、いつの間にかその声のする方へ歩みを向けていた。
暗い裏通りの方へ大志が一歩ずつ進んでいる間も、口論の声は絶え間なく響き、むしろ一層大きくなっていた。
それは男と女の声で、何やら揉めているようだった。でもその内容までは聞こえてこない。ただ、女性の声が段々とヒステリックになっているのはわかった。
他人同士の感情のぶつけ合いに恐怖と嫌悪感を抱く大志には、耳を塞ぎたくなるような状況だった。にも関わらず、足だけはその場所へ向かって動いていた。
その時だった。空気を裂くような男の叫び声が、裏通りにこだました。
竦み上がるような恐怖を感じながら、大志が声のした方へ足を進めると、塾の建物の裏側に出た。暗い裏路地に、白色LEDのランプが異様な明るさを保ったまま漏れ出ている。
大志が恐る恐るそこへ近づこうとした時、目の前に停められていた二台の車の向こう側で、何かが動いた。
大志が目をやると、車に遮られたわずかな灯りの向こうに、その何かの姿が見えた。
姉の美月だった。蒼ざめた顔でこちらを見つめる美月に、大志は何も言葉を掛けることが出来なかった。
ここは姉の職場なのだから、こうしてばったり出くわすことだってあり得るのだ。出会いたくはなかったけれど・・・。
ふと、美月の視線が建物の方へ向いた。大志もそれにつられるように、同じ方向へ目をやった。
そこには、腰の辺りを手で押さえながら苦悶の表情を浮かべる男が、コンクリートの地面に赤い血を広げながら倒れていた。
男と大志の間には外国製の高級車が行く手を塞ぐように停められていて、大志はその陰から男の様子を見ていた。
大志の頭のなかで、昨日の光景がフラッシュバックした。同時に、狼狽する美月の姿と目の前で苦しむ見知らぬ男性の姿とが、おかしな線で結びつけられた。
その時、悶え苦しむ男のすぐ向こう側に見える扉から、誰かが出てくるのが見えた。
それに気づいた大志は、逃げるようにその場から去った。男のことを気遣ったり、救急車を呼ぶ余裕などなかった。
その夜からずっと、大志は部屋から外へ出ていない。
しばらく壁に頭を付けていたけれど、物音ひとつ聞こえない。もしかしたら、姉は部屋にいないのかもしれない。
いや、今日姉が部屋を出た様子はなかったから、まだ中にはいるはずだ。大志はさらに強く壁に耳を押し当てた。
姉は強い人だ。そして正直に言って、姉のことは苦手だ。何より自分みたいな情けない人間が、一人前に強い姉のことを心配する資格なんて無い。
そんなことを思いながら、それでも大志は、あの夜、塾の建物の裏手で見た姉の、蒼く弱り切った顔を心の中から拭い去ることは出来なかった。
その時だった。唐突に玄関のチャイムが鳴った。こんな時間に来客だろうか、それとも宅配便?どちらにしても、母親が応対するだろうと、大志は構わず壁に耳を当て続けた。