第8話
文字数 1,886文字
どうやって家まで辿り着けたのか、全く思い出せない。周りの景色を知覚できるほどに意識が明瞭になってきた時、大志はすでに自分の部屋にいた。
窓から注ぐ外灯の明かりが、窓際に配置されたシングルベッドの輪郭を浮き上がらせている。それで、大志はここが自分の部屋であることを辛うじて認識した。
いつも通り夜の散歩に出掛け、いつも通りのコースを歩き、いつも通り家に帰ってきただけだ。誰にも、家族にも見られることなく、ひっそりと。
そうやって、いつも通りのことをしてきただけなのだと思い込もうとするほどに、大志の網膜の裏には、皺の深い老人が、薄い色素の瞳でしっかりとこちらを見据えている姿が映しだされた。
そして、自分よりも背の低い学生服の少女の、怯えながらもどこか大志の心の底を見抜くような澄んだ眼が、何度も何度も立ち現れて、そして消えていった。
そのたびに、掌に残るナイフの柄の感触が、生き物が蠢くように疼いた。柄のフォルムが、表皮を刺し貫いて肉の上に直接刻まれているようだった。
しかし、そんな身体にまで記憶されたナイフは、今大志の手元にはない。ポケットの中にも、どこにも。
帰る途中で落としたのだろうか。それはどこ?
どの時点までナイフを手にしていたのか、その記憶すらあやふやだった。けれど、もう一度ナイフを探しに外へ出ていく気力は、大志にはなかった。
ナイフなんて持っていなかったんだと、安直な逃げの結論を大志は下した。どうしようもなく自然な流れだった。
何もなかった。今夜は何も、ただいつものように、明るすぎる夜道を歩いてきただけ。
人の目から逃れられる自由な時間。必ず訪れる明日を、貝のように殻を固く閉ざして耐え抜くための、夜の散歩をした。ただ、それだけ。
だから、自分が帰ってきた十数分後に、母親が青ざめた顔で自宅へ戻ってきたことなど知る由もなかった。
外界から入り込むノイズはもちろん、内側から湧き上がるように彼の心へ迫る、真新しく、そして生々しい今夜の記憶を払い除け、遠ざけ、蓋をして、徹底的に外部化しようと試みる大志には、母親が玄関のドアを開ける音も届かなかった。
夜は長い。厄介な幻の記憶が波になってもう一度自分に襲いかかって来る前に、今夜はもう寝てしまおう。
大志は巣穴へ閉じこもるように、布団の中で丸くなった。
今日も一日、無難な日だった。大志にいい日など訪れる筈はない、ただ、無難な日がよたよたと、草臥れた老爺の足取りのように続いて行けばいい。
今日だってそんな日だったに違いない。
おい、と夫から声を掛けられて、尚子は我に返った。
もう3回くらい呼んだぞと不満げに視線を寄越す夫に、尚子は力の抜けきった声でごめんなさいと言った。
散歩から帰宅して、玄関の扉を開けて、靴を脱いで居間に入って・・・。
いつもの動作なのに、どこか現実でないような、遠くで起きている出来事のような、そんな感覚だった。
「大丈夫か?顔色が悪いぞ」
夫がソファから身体を起こして、尚子の顔を覗き込むようにしながらこちらへ近づいてきた。
尚子は、さっき自分が見聞きしたことを夫に打ち明け、相談しようかと思った。
けれど、夫がテレビのリモコンを手に持ったままであることに気づき、言葉にならない小さな失望感とともに相談する意欲を失った。
「大丈夫、身体が冷えただけ、外が少し寒かったから。お風呂入ってすぐに寝るから心配しないで」
「あぁ、そうか」
夫は 尚子のもっともらしい説明に納得したのか、気の抜けた返事をしてすぐに関心をテレビの方へ戻した。
尚子はふらつく足取りのまま台所へ向かった。そしてガスコンロのそばにある小さな引き出しを開けると、バッグの中に裸のまま仕舞っていたナイフを隠そうとした。
夫も娘も、普段から料理なんてしないから、ここにおいておけばまず気づかれることはない。
バッグからナイフを取り出そうとしながら、どうぞ、ナイフなんて見つからないでください、悪い夢の中にいたんだと気づかせてくださいと祈るようにバッグを探った尚子の指先に、冷たい金属の感触が伝わった。
鋭利で冷たい現実が尚子の首元に突きつけられた。
尚子は震える手でナイフを取り出し、音を立てないように神経を集中させながら、他のカトラリー達がしまわれた引き出しの奥に埋め込むようにしまった。
ここにしまってあるナイフやフォーク、スプーンの類は、普段使いをしない高級なものばかり。
この場所にしまっておけば、いずれ尚子自身もナイフの存在を忘れる事ができるに違いない。
そんな淡い期待を抱いて、尚子は引き出しを閉じた。
窓から注ぐ外灯の明かりが、窓際に配置されたシングルベッドの輪郭を浮き上がらせている。それで、大志はここが自分の部屋であることを辛うじて認識した。
いつも通り夜の散歩に出掛け、いつも通りのコースを歩き、いつも通り家に帰ってきただけだ。誰にも、家族にも見られることなく、ひっそりと。
そうやって、いつも通りのことをしてきただけなのだと思い込もうとするほどに、大志の網膜の裏には、皺の深い老人が、薄い色素の瞳でしっかりとこちらを見据えている姿が映しだされた。
そして、自分よりも背の低い学生服の少女の、怯えながらもどこか大志の心の底を見抜くような澄んだ眼が、何度も何度も立ち現れて、そして消えていった。
そのたびに、掌に残るナイフの柄の感触が、生き物が蠢くように疼いた。柄のフォルムが、表皮を刺し貫いて肉の上に直接刻まれているようだった。
しかし、そんな身体にまで記憶されたナイフは、今大志の手元にはない。ポケットの中にも、どこにも。
帰る途中で落としたのだろうか。それはどこ?
どの時点までナイフを手にしていたのか、その記憶すらあやふやだった。けれど、もう一度ナイフを探しに外へ出ていく気力は、大志にはなかった。
ナイフなんて持っていなかったんだと、安直な逃げの結論を大志は下した。どうしようもなく自然な流れだった。
何もなかった。今夜は何も、ただいつものように、明るすぎる夜道を歩いてきただけ。
人の目から逃れられる自由な時間。必ず訪れる明日を、貝のように殻を固く閉ざして耐え抜くための、夜の散歩をした。ただ、それだけ。
だから、自分が帰ってきた十数分後に、母親が青ざめた顔で自宅へ戻ってきたことなど知る由もなかった。
外界から入り込むノイズはもちろん、内側から湧き上がるように彼の心へ迫る、真新しく、そして生々しい今夜の記憶を払い除け、遠ざけ、蓋をして、徹底的に外部化しようと試みる大志には、母親が玄関のドアを開ける音も届かなかった。
夜は長い。厄介な幻の記憶が波になってもう一度自分に襲いかかって来る前に、今夜はもう寝てしまおう。
大志は巣穴へ閉じこもるように、布団の中で丸くなった。
今日も一日、無難な日だった。大志にいい日など訪れる筈はない、ただ、無難な日がよたよたと、草臥れた老爺の足取りのように続いて行けばいい。
今日だってそんな日だったに違いない。
おい、と夫から声を掛けられて、尚子は我に返った。
もう3回くらい呼んだぞと不満げに視線を寄越す夫に、尚子は力の抜けきった声でごめんなさいと言った。
散歩から帰宅して、玄関の扉を開けて、靴を脱いで居間に入って・・・。
いつもの動作なのに、どこか現実でないような、遠くで起きている出来事のような、そんな感覚だった。
「大丈夫か?顔色が悪いぞ」
夫がソファから身体を起こして、尚子の顔を覗き込むようにしながらこちらへ近づいてきた。
尚子は、さっき自分が見聞きしたことを夫に打ち明け、相談しようかと思った。
けれど、夫がテレビのリモコンを手に持ったままであることに気づき、言葉にならない小さな失望感とともに相談する意欲を失った。
「大丈夫、身体が冷えただけ、外が少し寒かったから。お風呂入ってすぐに寝るから心配しないで」
「あぁ、そうか」
夫は 尚子のもっともらしい説明に納得したのか、気の抜けた返事をしてすぐに関心をテレビの方へ戻した。
尚子はふらつく足取りのまま台所へ向かった。そしてガスコンロのそばにある小さな引き出しを開けると、バッグの中に裸のまま仕舞っていたナイフを隠そうとした。
夫も娘も、普段から料理なんてしないから、ここにおいておけばまず気づかれることはない。
バッグからナイフを取り出そうとしながら、どうぞ、ナイフなんて見つからないでください、悪い夢の中にいたんだと気づかせてくださいと祈るようにバッグを探った尚子の指先に、冷たい金属の感触が伝わった。
鋭利で冷たい現実が尚子の首元に突きつけられた。
尚子は震える手でナイフを取り出し、音を立てないように神経を集中させながら、他のカトラリー達がしまわれた引き出しの奥に埋め込むようにしまった。
ここにしまってあるナイフやフォーク、スプーンの類は、普段使いをしない高級なものばかり。
この場所にしまっておけば、いずれ尚子自身もナイフの存在を忘れる事ができるに違いない。
そんな淡い期待を抱いて、尚子は引き出しを閉じた。