第29話
文字数 2,718文字
睦月は今日にでも退院して、明日からまた学校に来るらしい。そんな話を、佐波が尋ねもしないのに教えてくれた。
「お、そうなんだ。よかったじゃん」
自然に、興味のない風を装いながら、悠人はそう返事をした。
そんな悠人に佐波は意味深げな笑みを向け、お迎えに行ってあげたら?と言った。
「そうしよっかなぁ」
悠人はどこか惚けたような顔を作ってそう言うと、すぐにニッと笑い返した。
「それはそうと 、真面目な話、睦月は今すっごく落ち込んでるかもしれないんだよね」
ふと、佐波は真顔になると、声を潜めてそう言った。
「ん、どういうこと。何かあった?」
悠人は思わず佐波の机に両手をつき、そう尋ねていた。
佐波は周りの様子を気にしながら、出来るだけ周囲に聞こえないよう口元に手を添えて話し始めた。
「私と睦月、百道にある同じ塾に通ってるんだけど、そこの先生が一昨日の夜に誰かに刺されたんだって」
「刺された?」
佐波の口から出た予想外の言葉に、悠人は思わず佐波の方へ顔を近づけた。
「うん、栗原先生って言うんだけど、塾の社長でもあるんだ・・・」
佐波はなぜかそこで一度言葉を濁した。でもすぐに思い直したように悠人の方を見ると、さっきよりも一層小さな声でこう言った。
「今から喋ること、私から悠人に言ったってこと、睦月には内緒にしててね。実はさ・・・」
佐波の抑えられた小さな声に、悠人は注意深く耳を澄ました。
「睦月、刺された栗原先生から色々と嫌がらせ受けてて、そのさ、なんていうか、セクハラじゃないけど・・・」
言いづらそうにしながら、佐波は何度となく悠人から視線を外しては、また戻す動作を繰り返した。
「でさ、刺された栗原先生を見つけたのが、大塚先生だったんだけど。大塚先生ね、栗原先生が地面に倒れてるのを見つけたすぐ後に、黒い服を着た男が逃げてくのを見たんだって」
黒い服の男、そこまで聞いて、悠人は睦月を襲った通り魔のことが頭に浮かんだ。
その話題を思わず口にしそうになって、悠人は躊躇った。昨日、睦月のところに見舞に行ったことを知られるのは恥ずかしかった。
「それさ、ニュースでやってた通り魔じゃね?」
代わりに出てきた言葉がこれだった。老人が喉を切られて重傷を負った話がニュースになっていたのは間違いない。
「え、ニュースにもなってたんだ。私、普段ニュースとか見ないから。今の話は塾に通ってる別の友達から聞いて、それで、うっかり睦月にも話しちゃったんだけど」
佐波は何か気まずそうにもう一度周りの様子を確認しながら、話を続けた。
「で、実はさ、その通り魔に睦月も襲われたらしくて、それで入院してたんだって、睦月に言われて・・・。あ、もう一回言うけど、睦月には内緒にしててね」
念を押すように佐波は言った。
「お、おぅ。言わない、言わない」
軽い調子でそう答えた悠人に、佐波は、ほんと?と苦笑いしながら、けれどどこか不安げに悠人の顔を覗き込んだ。
でも悠人の頭の中は、もう睦月の塾の講師が刺された話でいっぱいになっていた。
もちろん、その講師が睦月に嫌がらせをしていたことも、聞き捨てならないことではあった。
でもそんなことより、その話を知った睦月の心の内を想像すると、悠人は心配でならなかった。
自分を襲った通り魔が、まだ自分の生活圏の中にいて、しかも自分が良く知っている相手を襲ったことを知ってしまった睦月の不安は、どれほどのものだろう。
そんなことを考えながら、もう一度佐波の方へ視線を戻した。
佐波は相変わらずほんのりと笑顔で悠人を見ていたけれど、その表情はどこか不安を包み隠しているように見えた。
塾の講師が刺された話を、睦月にするべきじゃなかったかもしれないと、きっとそんな風に思って、佐波も責任を感じているに違いない。
(よし、純季に相談だ)
悠人はそんなことを考え、そしてギュッと両拳を握った。
「とりあえず、無事に退院出来たんだし、よかったじゃん」
佐波を元気づける丁度いい言葉は見つからなかったけれど、その代りに出来るだけ明るくそう言った。
今は当たり障りのない励まししか出来ないけれど、絶対に睦月と佐波の不安は取り除いて見せる。もちろん、悠人だけの力でどうにかするわけでは無いのだけれど。
悠人は佐波と別れて自分の机に戻ると、さっそくスマートフォンのメッセージアプリを起動して、純季にメッセージを送った。
今日の放課後に例の事件の現場に行くぞ、と。
◯◯公園は、医療センターを出て博物館方面へ歩いて行った先に、確かにあった。
タワーまで歩いた後、博物館と図書館の間を抜け、よかトピア通りに突き当たったところで西へ進路をとると、数十mも歩かないうちにその公園に行き着いた。
昨日、病院の帰りに立ち寄りたかったが、どうにもすぐに通り魔の現場 まで行くのは気が引けてしまった。
だが今日の佐波の話を聞いて、気持ちを抑えきれずに思い切ってやってきたのだ。もちろん、純季を引き連れて。
今度は高校の出口付近で純季を待ち構え、とぼとぼ歩いてきたところを捕まえた。
高校まで来られるのは嫌だったらしく、純季は昨日よりも一層不機嫌だった。
けれど、悠人はそんなことに構うつもりはなく、純季を引きずって現場までやってきた。
公園に向かう道すがら、悠人は純季に、今日の朝に学校で佐波から聞いた話をした。
睦月と佐波の通う塾の講師が刺されたこと。現場から、黒い服の男が逃げていく姿が目撃されたことなどを、出来るだけ端的に話した。
「やっぱ、米原さんを襲ったのと同じ奴だよな」
悠人は、純季が同意してくれることを期待してそう尋ねた。純季は何か考えるように空を見上げてから、どうかな、と一言呟いた。
「その話だけじゃなんとも言えないな。黒い服の男って、具体的にどんな黒い服なんだ?身長はどれくらいとか、顔ははっきり見たのかとか、色々情報が不足してて、なんとも言えない」
「あぁ、そっか。まぁそうかも・・・」
純季に切り捨てられるようにそう言われ、悠人はなんとなくそれ以上のことを聞く気になれなかった。自分の言うことに自信が持てなくなった気がした。
「でも一応覚えとく、何か関係あるかもしれないし」
純季はそんな少し落ち込み気味の悠人の方は見ずに、そう言った。
純季なりの慰めの言葉と思っていいだろうかと、悠人は相手の方へ視線を送ったけれど、純季は相変わらずどこか遠くを見ていた。
「あ、因みに米原さんは今日退院らしいよ」
悠人は少し恨めし気に、その情報を付け足した。
「そうか、良かったな」
純季はそれだけ言うと、目的地に向かってスタスタと歩き出した。悠人はそれに遅れまいと付いて行った。
「お、そうなんだ。よかったじゃん」
自然に、興味のない風を装いながら、悠人はそう返事をした。
そんな悠人に佐波は意味深げな笑みを向け、お迎えに行ってあげたら?と言った。
「そうしよっかなぁ」
悠人はどこか惚けたような顔を作ってそう言うと、すぐにニッと笑い返した。
「それはそうと 、真面目な話、睦月は今すっごく落ち込んでるかもしれないんだよね」
ふと、佐波は真顔になると、声を潜めてそう言った。
「ん、どういうこと。何かあった?」
悠人は思わず佐波の机に両手をつき、そう尋ねていた。
佐波は周りの様子を気にしながら、出来るだけ周囲に聞こえないよう口元に手を添えて話し始めた。
「私と睦月、百道にある同じ塾に通ってるんだけど、そこの先生が一昨日の夜に誰かに刺されたんだって」
「刺された?」
佐波の口から出た予想外の言葉に、悠人は思わず佐波の方へ顔を近づけた。
「うん、栗原先生って言うんだけど、塾の社長でもあるんだ・・・」
佐波はなぜかそこで一度言葉を濁した。でもすぐに思い直したように悠人の方を見ると、さっきよりも一層小さな声でこう言った。
「今から喋ること、私から悠人に言ったってこと、睦月には内緒にしててね。実はさ・・・」
佐波の抑えられた小さな声に、悠人は注意深く耳を澄ました。
「睦月、刺された栗原先生から色々と嫌がらせ受けてて、そのさ、なんていうか、セクハラじゃないけど・・・」
言いづらそうにしながら、佐波は何度となく悠人から視線を外しては、また戻す動作を繰り返した。
「でさ、刺された栗原先生を見つけたのが、大塚先生だったんだけど。大塚先生ね、栗原先生が地面に倒れてるのを見つけたすぐ後に、黒い服を着た男が逃げてくのを見たんだって」
黒い服の男、そこまで聞いて、悠人は睦月を襲った通り魔のことが頭に浮かんだ。
その話題を思わず口にしそうになって、悠人は躊躇った。昨日、睦月のところに見舞に行ったことを知られるのは恥ずかしかった。
「それさ、ニュースでやってた通り魔じゃね?」
代わりに出てきた言葉がこれだった。老人が喉を切られて重傷を負った話がニュースになっていたのは間違いない。
「え、ニュースにもなってたんだ。私、普段ニュースとか見ないから。今の話は塾に通ってる別の友達から聞いて、それで、うっかり睦月にも話しちゃったんだけど」
佐波は何か気まずそうにもう一度周りの様子を確認しながら、話を続けた。
「で、実はさ、その通り魔に睦月も襲われたらしくて、それで入院してたんだって、睦月に言われて・・・。あ、もう一回言うけど、睦月には内緒にしててね」
念を押すように佐波は言った。
「お、おぅ。言わない、言わない」
軽い調子でそう答えた悠人に、佐波は、ほんと?と苦笑いしながら、けれどどこか不安げに悠人の顔を覗き込んだ。
でも悠人の頭の中は、もう睦月の塾の講師が刺された話でいっぱいになっていた。
もちろん、その講師が睦月に嫌がらせをしていたことも、聞き捨てならないことではあった。
でもそんなことより、その話を知った睦月の心の内を想像すると、悠人は心配でならなかった。
自分を襲った通り魔が、まだ自分の生活圏の中にいて、しかも自分が良く知っている相手を襲ったことを知ってしまった睦月の不安は、どれほどのものだろう。
そんなことを考えながら、もう一度佐波の方へ視線を戻した。
佐波は相変わらずほんのりと笑顔で悠人を見ていたけれど、その表情はどこか不安を包み隠しているように見えた。
塾の講師が刺された話を、睦月にするべきじゃなかったかもしれないと、きっとそんな風に思って、佐波も責任を感じているに違いない。
(よし、純季に相談だ)
悠人はそんなことを考え、そしてギュッと両拳を握った。
「とりあえず、無事に退院出来たんだし、よかったじゃん」
佐波を元気づける丁度いい言葉は見つからなかったけれど、その代りに出来るだけ明るくそう言った。
今は当たり障りのない励まししか出来ないけれど、絶対に睦月と佐波の不安は取り除いて見せる。もちろん、悠人だけの力でどうにかするわけでは無いのだけれど。
悠人は佐波と別れて自分の机に戻ると、さっそくスマートフォンのメッセージアプリを起動して、純季にメッセージを送った。
今日の放課後に例の事件の現場に行くぞ、と。
◯◯公園は、医療センターを出て博物館方面へ歩いて行った先に、確かにあった。
タワーまで歩いた後、博物館と図書館の間を抜け、よかトピア通りに突き当たったところで西へ進路をとると、数十mも歩かないうちにその公園に行き着いた。
昨日、病院の帰りに立ち寄りたかったが、どうにもすぐに通り魔の現場 まで行くのは気が引けてしまった。
だが今日の佐波の話を聞いて、気持ちを抑えきれずに思い切ってやってきたのだ。もちろん、純季を引き連れて。
今度は高校の出口付近で純季を待ち構え、とぼとぼ歩いてきたところを捕まえた。
高校まで来られるのは嫌だったらしく、純季は昨日よりも一層不機嫌だった。
けれど、悠人はそんなことに構うつもりはなく、純季を引きずって現場までやってきた。
公園に向かう道すがら、悠人は純季に、今日の朝に学校で佐波から聞いた話をした。
睦月と佐波の通う塾の講師が刺されたこと。現場から、黒い服の男が逃げていく姿が目撃されたことなどを、出来るだけ端的に話した。
「やっぱ、米原さんを襲ったのと同じ奴だよな」
悠人は、純季が同意してくれることを期待してそう尋ねた。純季は何か考えるように空を見上げてから、どうかな、と一言呟いた。
「その話だけじゃなんとも言えないな。黒い服の男って、具体的にどんな黒い服なんだ?身長はどれくらいとか、顔ははっきり見たのかとか、色々情報が不足してて、なんとも言えない」
「あぁ、そっか。まぁそうかも・・・」
純季に切り捨てられるようにそう言われ、悠人はなんとなくそれ以上のことを聞く気になれなかった。自分の言うことに自信が持てなくなった気がした。
「でも一応覚えとく、何か関係あるかもしれないし」
純季はそんな少し落ち込み気味の悠人の方は見ずに、そう言った。
純季なりの慰めの言葉と思っていいだろうかと、悠人は相手の方へ視線を送ったけれど、純季は相変わらずどこか遠くを見ていた。
「あ、因みに米原さんは今日退院らしいよ」
悠人は少し恨めし気に、その情報を付け足した。
「そうか、良かったな」
純季はそれだけ言うと、目的地に向かってスタスタと歩き出した。悠人はそれに遅れまいと付いて行った。