第1話
文字数 2,612文字
今日は珍しく、午前中にベッドから出ることが出来た。荒縄で締め上げられるような鈍い頭痛と一緒に、大志は階段を下りた。
午前中に目覚めたとはいえ、時刻はすでに一〇時を回っていた。共働きの両親も、就職した姉も、もうこの時間には家にいない。
いつものように静まり返った家の中、締め切られた窓の向こうから、自動車の行きかう音、そしてたまに、誰かの笑う声。
リビングルームに入ると、きつすぎないように配慮されたルームフレグランスの香りと一緒に、食べ物の匂いが鼻腔に滑り込んできた。
見れば、テーブルの上にビニールラップがかけられた皿が一枚あった。
皿には目玉焼きとほうれん草、半分にカットされたウィンナーが、お互いの領域を侵さぬように整然と配置されている。
皿の隣には、走り書きのメモが残されていた。
“今日は昼休みに帰れません ご飯は冷凍庫にある冷凍食品とかを使ってください ”
母親の字だった。職場が近いので、このところ昼休みにはいつも家に帰ってきて、昼食を一緒に摂るようにしている。
大志はメモ書きを引っ掴んで、一旦は丸めて握り潰したものの、それをそのままゴミ箱に捨てることはせず、寝間着のポケットに突っ込むようにしまった。
それから皿に掛けられたラップを外し、カトラリーの籠からフォークを一本、適当なのを取り出して皿の上の食事を食べ始めた。
ほうれん草を舌の上にのせて、しばらく噛まずにいる。
そうしていると、昔だったらほうれん草に絡んだバターと塩の味が、じんわりと口の中に広がっていた。
なのに今は、その味がわからなくなっていることに気付いた。
目玉焼きだって、以前だったら何もつけずに口の中に放りこんでも、白身の豊かな膨らみを持った風味、その中で引き立つ黄身の濃い香りを敏感に感じ取ることが出来ていたはずだ。
なのに、それも今はよくわからない。
とはいえ、ドレッシングなり何なり、何か別のものをかけようという気にもならなかった。 かけたところで、愉快な気持ちにも、特別な気分にもなるわけではないのだ。
家の外が一層賑やかになってきた。楽しそうな笑い声や、近所の保育園に通う小さな子供が張り上げる声も聞こえてくる。
楽しそうだ、楽しそうだけれど、何がそんなに楽しいのか、大志にはわからなかった。
ここ数か月の間、大志は今まで当たり前のように持っていた、周りの出来事に感動したり、快感をおぼえたり、失望や落胆を感じる力すらすっかり奪われてしまっていた。
今や大志にとっての日常は、彼を取り巻く世界の出来事が自分の身体を透過していくような虚しい時間に過ぎ無かった。
その流れに網を張って世界を捕捉しようとする元気もない大志には、あってもなくても変わらないものだった。
自分がいなくても、世界は勝手に動いていく。そのことに気が付いてしまった大志にとって、朝の住宅街で朗らかに笑う人たちは、明るい太陽の下で笑顔になれる権利を持つ幸せな人たちとしか思えなかった。
学校に行かない時間がこんなに長くなるなんて、大志にとって思ってもいないことだった。挙句、高校を中退することになるなんて。
最初は学校に戻るように強く勧めていた親も、頑として動かない大志に、今は何も言わなくなった。
大志は動かないのではなく、動けなかったのだが、親にとってはどちらも同じことだったのかもしれない。すっかり会話も少なくなった。
学校に行けないことと、行かないこととの間には、大きな隔たりがある。
学校に行かない人間には、その人間自身の意思が感じられるけれど、学校に行けない人間にそれはない。
色々なものに追いやられて、どうしようもなくなって、学校から逃げるのだ。
それは究極的には、精神が生きるか死ぬかの問題に行き着く切実なものなのだ。
自分の存在がその根源的な部分から学校というものを拒否している。大げさに聞こえるかもしれないけれど、そう説明する以外に説明のしようがない。
大志もその類いだった。さらに困ったことに、学校に行けなくなった明確な理由を今もって大志は説明できないでいる。
正確に、わかりやすく、両親や姉、先生やその他周りの人たちが納得してくれるような説明を、大志は語れずにいるのだ。
学校に行くと疲れる、学校で一日を過ごすのがしんどい、学校にいると頭が痛くなる。こんなことが理由になるのだろうか?
もっとわかりやすく、苛められているとかいった事実でもあれば、まだそれなりの理由にはなったのだろう。
けれど、大志は学校で苛められているわけではないし、特定の生徒やグループと相性が悪いとか、仲間外れにされているとかいう事でもない。
自分ではない別の誰かが苛められていたりすれば、その事実に恐怖したり、標的にされた生徒に同情したりはする。
そして、そんなギスギスした学校の雰囲気を感じて心を疲労させたり、標的になった生徒を助けようとしない自分を嫌悪したりして、内面をすり減らすことはしばしばあった。
もしかすると、それが大志を学校から遠ざけた理由なのかもしれない。そうなのかもしれないけれど、それを堂々と両親や姉に話す勇気が、大志にはなかった。
それはつまり、学校は居心地が悪いから行かないと言っているようなものだ。そんなことが、理由として成立するのだろうか。
どんな生徒だって、そんな思いを抱えながら学校に行っている、そう言い返されるに違いない。
もしクラスや学校中でのいじめや、雰囲気を悪くするやつがいるのなら、勇気をもってそいつにかかっていけと、姉なら言うかもしれない。
実際、姉は中学、高校時代にそうやって目の前の問題に立ち向かって、周囲の人間と色々揉めることが多かったらしい。彼女は鉄のような心を持った人なのだ。
でも自分にはそんな強さは無いと、大志は十分自覚していた。自分は姉ちゃんとは違うと、姉に向かって抗弁する度胸すらないような人間なのだから。
空になった朝食の皿の、端の方にこびり付いた卵の黄身のオレンジ色をじっと見るつめながら、大志はこうやって何も言わずに家の中に避難するくらいしか、今の自分に出来ることはないのだと、静かに自分に言い聞かせていた。
安全な殻の内側で、とにかく生きているだけで、それだけで精一杯なのだ。
もちろん、それくらいしか出来ない奴に生きている意味など無いと言われれば、それまでなのだけれど・・・。
午前中に目覚めたとはいえ、時刻はすでに一〇時を回っていた。共働きの両親も、就職した姉も、もうこの時間には家にいない。
いつものように静まり返った家の中、締め切られた窓の向こうから、自動車の行きかう音、そしてたまに、誰かの笑う声。
リビングルームに入ると、きつすぎないように配慮されたルームフレグランスの香りと一緒に、食べ物の匂いが鼻腔に滑り込んできた。
見れば、テーブルの上にビニールラップがかけられた皿が一枚あった。
皿には目玉焼きとほうれん草、半分にカットされたウィンナーが、お互いの領域を侵さぬように整然と配置されている。
皿の隣には、走り書きのメモが残されていた。
“今日は昼休みに帰れません ご飯は冷凍庫にある冷凍食品とかを使ってください ”
母親の字だった。職場が近いので、このところ昼休みにはいつも家に帰ってきて、昼食を一緒に摂るようにしている。
大志はメモ書きを引っ掴んで、一旦は丸めて握り潰したものの、それをそのままゴミ箱に捨てることはせず、寝間着のポケットに突っ込むようにしまった。
それから皿に掛けられたラップを外し、カトラリーの籠からフォークを一本、適当なのを取り出して皿の上の食事を食べ始めた。
ほうれん草を舌の上にのせて、しばらく噛まずにいる。
そうしていると、昔だったらほうれん草に絡んだバターと塩の味が、じんわりと口の中に広がっていた。
なのに今は、その味がわからなくなっていることに気付いた。
目玉焼きだって、以前だったら何もつけずに口の中に放りこんでも、白身の豊かな膨らみを持った風味、その中で引き立つ黄身の濃い香りを敏感に感じ取ることが出来ていたはずだ。
なのに、それも今はよくわからない。
とはいえ、ドレッシングなり何なり、何か別のものをかけようという気にもならなかった。 かけたところで、愉快な気持ちにも、特別な気分にもなるわけではないのだ。
家の外が一層賑やかになってきた。楽しそうな笑い声や、近所の保育園に通う小さな子供が張り上げる声も聞こえてくる。
楽しそうだ、楽しそうだけれど、何がそんなに楽しいのか、大志にはわからなかった。
ここ数か月の間、大志は今まで当たり前のように持っていた、周りの出来事に感動したり、快感をおぼえたり、失望や落胆を感じる力すらすっかり奪われてしまっていた。
今や大志にとっての日常は、彼を取り巻く世界の出来事が自分の身体を透過していくような虚しい時間に過ぎ無かった。
その流れに網を張って世界を捕捉しようとする元気もない大志には、あってもなくても変わらないものだった。
自分がいなくても、世界は勝手に動いていく。そのことに気が付いてしまった大志にとって、朝の住宅街で朗らかに笑う人たちは、明るい太陽の下で笑顔になれる権利を持つ幸せな人たちとしか思えなかった。
学校に行かない時間がこんなに長くなるなんて、大志にとって思ってもいないことだった。挙句、高校を中退することになるなんて。
最初は学校に戻るように強く勧めていた親も、頑として動かない大志に、今は何も言わなくなった。
大志は動かないのではなく、動けなかったのだが、親にとってはどちらも同じことだったのかもしれない。すっかり会話も少なくなった。
学校に行けないことと、行かないこととの間には、大きな隔たりがある。
学校に行かない人間には、その人間自身の意思が感じられるけれど、学校に行けない人間にそれはない。
色々なものに追いやられて、どうしようもなくなって、学校から逃げるのだ。
それは究極的には、精神が生きるか死ぬかの問題に行き着く切実なものなのだ。
自分の存在がその根源的な部分から学校というものを拒否している。大げさに聞こえるかもしれないけれど、そう説明する以外に説明のしようがない。
大志もその類いだった。さらに困ったことに、学校に行けなくなった明確な理由を今もって大志は説明できないでいる。
正確に、わかりやすく、両親や姉、先生やその他周りの人たちが納得してくれるような説明を、大志は語れずにいるのだ。
学校に行くと疲れる、学校で一日を過ごすのがしんどい、学校にいると頭が痛くなる。こんなことが理由になるのだろうか?
もっとわかりやすく、苛められているとかいった事実でもあれば、まだそれなりの理由にはなったのだろう。
けれど、大志は学校で苛められているわけではないし、特定の生徒やグループと相性が悪いとか、仲間外れにされているとかいう事でもない。
自分ではない別の誰かが苛められていたりすれば、その事実に恐怖したり、標的にされた生徒に同情したりはする。
そして、そんなギスギスした学校の雰囲気を感じて心を疲労させたり、標的になった生徒を助けようとしない自分を嫌悪したりして、内面をすり減らすことはしばしばあった。
もしかすると、それが大志を学校から遠ざけた理由なのかもしれない。そうなのかもしれないけれど、それを堂々と両親や姉に話す勇気が、大志にはなかった。
それはつまり、学校は居心地が悪いから行かないと言っているようなものだ。そんなことが、理由として成立するのだろうか。
どんな生徒だって、そんな思いを抱えながら学校に行っている、そう言い返されるに違いない。
もしクラスや学校中でのいじめや、雰囲気を悪くするやつがいるのなら、勇気をもってそいつにかかっていけと、姉なら言うかもしれない。
実際、姉は中学、高校時代にそうやって目の前の問題に立ち向かって、周囲の人間と色々揉めることが多かったらしい。彼女は鉄のような心を持った人なのだ。
でも自分にはそんな強さは無いと、大志は十分自覚していた。自分は姉ちゃんとは違うと、姉に向かって抗弁する度胸すらないような人間なのだから。
空になった朝食の皿の、端の方にこびり付いた卵の黄身のオレンジ色をじっと見るつめながら、大志はこうやって何も言わずに家の中に避難するくらいしか、今の自分に出来ることはないのだと、静かに自分に言い聞かせていた。
安全な殻の内側で、とにかく生きているだけで、それだけで精一杯なのだ。
もちろん、それくらいしか出来ない奴に生きている意味など無いと言われれば、それまでなのだけれど・・・。