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文字数 4,479文字

     ☆

『ごめん妃弦(ひづる)ちゃん! 返信遅くなっちゃって汗』

 仕事の同期から1週間ぶりにそんな連絡が来た。妃弦というのはメッセージを受け取った彼女、名塚(なづか)妃弦の本名で、メッセージを送ってきた側の名前欄には『蜜柑ましゅ@3期生』とある。当たり前だけど、昔オフで会った時の本名は違うものだった。

「ましゅから連絡きた」
「そう。何て?」

 名塚は通知に目を滑らせる。

「『ちょっと体調崩しただけで、元気してる』って」
「なら良かったけど」
「いやあ、あたしは本っ気で心配だった。戻ってこられるといいな……」

 『本』と『気』の間に力を込めながら、ましゅについて、このところ考えていたことを思い出す。出会った頃からずっと、何かふわふわしていて、抜けてるところの多い子だった。だけどそれはあくまで個性として許されるようなレベルだったし、何より一緒にいて落ち着くので名塚は彼女のことが好きだった。ただ、仕事をする上で数字が着いてこなかった。名塚と一緒にデビューした––––正確には一緒にデビューしたのは名塚本人ではないが––––のに、同期の中でも登録者や、配信中の視聴者数が、1人だけ明らかに少なかった。そういうのをネットでずっとバカにされてきた。

「ましゅはプロ意識が足らないところがあるもの。この機会に成長できるのを楽しみにしてる」
「レイラ、厳しいね。仕事だけがましゅの全てじゃないのに」

 レイラというのは今目の前にいる同期の名前であるが、彼女は別に外国籍なんかじゃなくて、産まれも育ちも、何ならルックスも生粋の日本人だ。ただ仕事柄、つまり彼女が振る舞うキャラクターがそういう名前だからそう呼んでいる。

「でも、自分で選んだ道だし、お金貰ってるんだよ。5万なんて簡単に飛んでくるけど、普通の人がそれを稼ぐのにどれだけ汗が流していると思ってるの」
「それは……」

 喋るだけで5万貰えるようになるまでに、ましゅだってたくさんの苦労をしている、と言いかけて口を閉じた。それが本当だったか分からなかった。名塚やレイラを含む『3期生』––––バーチャルライバーをプロデュースする事務所、『enjoy idolness』通称『エンドル』の3期生––––は、優秀な4期生や5期生がネット上でたくさんの活躍をしたおかげで、最近急激にチャンネル登録者や配信の同時接続人数が増えた。ファンの皆は、3期生を昔から支えた伝説の一部として讃えてくれるけど、それだけの何かを成し遂げた自信が名塚にはない。

「じゃあ私帰ろっかな。(つなぐ)も明日収録でしょ」

 繋。星空(ほしぞら)繋。妃弦に与えられた電脳世界での名前。いや、厳密には妃弦と独立して生きていると言っていいかもしれない。机の上に飾られたフィギュアや壁のポスターを見る。サンプルとして運営から貰ったもの。現実の名塚よりも目が大きくて、頭身は小さくて、笑顔が多い。レイラは名塚のことを繋と呼ぶし、名塚は彼女のことをレイラと呼ぶ。そうすれば配信中に本名で呼んでしまう可能性が絶対にないから。

「ねえねえ、何飲んでるの?」

 レイラが錠剤を口にしたから聞いてみる。知っている文字列だったけど、敢えて。

「なんでもいいでしょ」
「向精神薬? 抗不安?」
「……詳しいの」
「いや、たまたま知ってた」

 何も言わないで彼女は立ち上がる。自分だって限界を迎えているくせに、口ではいつもプロ意識だの社会人としての弁えだのを唱える。

 名塚も、配信直前まで体が動かないことがある。幸い、メイクをしてなくても、髪が乱れて肌が荒れてても、繋はいつも可愛いから、配信という仕事を開始することができる。喋っていると勝手に体が温まって、全身は重いままだけど神経細胞は全部仕事のために駆動されるようになる。そうして配信が終わると、どっと疲れる。レイラが飲んでいた粒はそんな感じなのだろうか。

 オーディションに通ったときは泣くくらい嬉しかったのに、今は宝くじが当たったらいつでも辞めてしまうくらいのモチベーションだ。もっと昔、視聴者数を頑張って3桁に、4桁に、ともがいて(・・・・)いたころは、お金も時間もなかったのに、ファンの声が心地よくて仕方なかった。もちろん現在(いま)でもファンの声は嬉しいけど、彼らじゃない何かが繋の足を引っぱって地獄に連れて行こうとしている。

「繋ー! ちょっと」

 玄関でレイラが叫んで、意識が現実に戻る。「変な人来てるけど、友達? ストーカーなら通報しようか」と真顔で言う。恐る恐るドアの向こう側を覗くと小さな女の子がいたので、名塚は扉を開いた。

「はじめまして、名塚妃弦。……いいえ、ワタクシの敬愛する、星空繋様」

 いかにもお嬢様のような格好で、黒服を携えて、繋のフルグラフィックTシャツを来て、ヘリで来ましたの、と嬉しげに話す彼女は……間違いなく不審者だ。

「ごめんやっぱ変な子かも。まあ、何とかする」

 何をすれば良いか分からなかったがレイラには帰ってもらう。そのお嬢様は繋みたいに背が低くて、顔つきを見る感じ小学生か中学生に見える。子供でもネットストーキングをする時代か。

「お会いできて光栄ですわ、繋様。カガリと申します。ワタクシ、初期の頃からずっと星空組(ほしぞらぐみ)でして」

 星空組とは、星空繋のファンネームのことだ。繋のことは皆、昔から一貫して『つなぐん』と呼んでいるのに、『繋様』とだけ呼んでいるのが気になった。

「えっと、なんであたしの家を?」

 どこか彼女を完全な悪だとは思えなかったので、名塚は無理やり笑顔を作って問いかけてみる。

「細かいことはいいでしょう。それくらい、ワタクシには容易(たやす)いことですから」 

 顔も見たことがない相手の家を特定するのは中々細かいことではないように思えるが、名塚はツッコむのを我慢する。

 自分のファンだと名乗る小学生は、あくまで堂々とした振る舞いで話を続けた。

「少し、幸せになってみたいと思いませんか? ……ワタクシは、あなたに対する誹謗中傷を全て消し去りたくて、その相談に来ましたの」

 胸を張った彼女の体で、Tシャツにプリントされた繋の顔が歪に笑っている。
 


 6月15日 (木)

幽谷茉莉(ゆうこくまつり)はあなたから隔離しました。あとは会うだけですね。最近、新しい仕事が順調ですから予定を合わせるのが大変です。以下の日程が空いていますから、都合の良い日をまた教えてくれますか?』

 本日の果たし状にはそんなことが書かれていた。後ろには、都合の良い日程一覧が記されている。もはや果たし状ではなくてただのスケジュール確認だ。そのくせ差出人は書かれていない。

「何がしたいんだ、こいつは……」

 人類がみな合理的に行動できるわけではないのと同様に、カワイくない行動を進んで行う人もいる。彼らの行動原理が、紫陽(しはる)には理解できない。

「あれ、茉莉まだ居たのか」
「おおっす紫陽か。ビビった」
「ずっと靴箱に居たが」
「わざわざここに滞在したがるのは物好きだなあ」
「……茉莉は何を?」
「雨止むまで待ってた」

 最近、毎日雨が振るようになった。年単位で訪れる季節変化の証であるが、太陽が眩しかったゴールデンウィーク前後と比較すると毎日空が暗くて気分がカワイくなくなる。

「まだ降ってないか? ……というか勢いを増したな」
「いやほんとそれな! 塾あるから出なきゃいけないし最悪」
「最近、塾多いな」

 黙って紫陽は持っていた傘を差し出した。貸そうか、の意である。「大丈夫!」と答えた茉莉はランドセルから折りたたみ傘を2本取り出して双剣みたいに構えた。「これで雨を2倍防ぐ!」

「ならば3本目があれば3倍だぞ」
「アホか! 傘なんて複数本あっても意味ねえ!」

 雨はさらに激しさを増す。紫陽にとって、警報で休みにならない豪雨に価値はない。

     ◆

 家に帰って有意義なことをしようと決意したとき、それが実行される可能性はゼロパーセントである。

 部屋でダラダラとスマホを見ながらそんなことを考えた。せっかく遊ぶ予定もなしに夜まで時間があるのだから、最近やっていないゲームをやるとか、もっとお上品なのは宿題をやるとか、雨の中歩いているときはそんなことを予定していた。実際に家に着くと、まずいきなり何かに手をつけるのは気が引けるのでスマホを開く。通知のないメッセージを確認する。好きでもない動画投稿者の動画を見始める。特別興奮しないけど、その微弱な刺激がないと落ち着かない。雨で濡れた靴下が気持ち悪いけどシャワーを浴びる気分にもならない。

 何かカワイイことが落ちていないものか。

 ふと、関連動画にいたキャラクターに目がいった。我が国のサブカルチャーはとてつもない速度で成長していて、時代とともに「カワイイ」デザインというのが変貌していく。Live 2Dという名前だけ知っている技術で動くそのキャラクターは間違いなく最先端のカワイイデザインに違いない、と紫陽は直感で思った。

『短冊ありがと〜。星の元に、私が繋いであげるね』

 脳が溶けそうな声でキャラクターはそう言った。七夕まであと3週間もあるのに、連日配信するとここまで体内時計が狂うのかと紫陽は戦慄した。

 ––––星空繋。カガリがときおり口に出す、バーチャルライバー。カガリから聞かなくとも、お菓子売り場でコラボしたクリアファイルが売っていたりするので、目にする機会は多い。

『え?w これって全部しないといけない? 私スルーしそうになったんだけどw』
『何とかならないかな〜。……こいつ斬ってみるとか!』
『あ、案内係は攻撃できないんだ。……www。うっさい! つなムーブ助かる? ちょ、そんなつもりじゃないから〜』

 ゲームをプレイしながら、彼女は1人でそんなことを言っている。怒涛の勢いで、コメントのようなものが流れていく。チャットというらしい。英語も混じっていて、何を言っているのかは完全に追いつけないけど、みな楽しそうにしているのは分かる。全員がポジティブな感情に包まれていて、カワイイ空間だと思った。

 加えて右下で笑ったり眉を潜めたり困った顔をしたりするキャラクターもカワイイ。ゲームの内容がわからなくても右下を見ているだけで時間が経過する。

 編集を経ない生配信である分、普段見るような大学生ノリの動画に比べると緩急に乏しいと思った。コンテンツの濃度はいつも見ている動画投稿者たちの方が濃いと思った。なのに、紫陽は星空繋から目が離せない。

 このチャット欄で盛り上がっている人たちはいつも配信を長時間見ているのだろう、とか、こればビジネスとして成り立っている理由とか、このカワイイキャラクターに声をあてている人はどんな人なんだろうとか、授業中の暇なときみたいに至極くだらないことを紫陽は考えながら、カワイく揺れる星空繋を見て頬を緩ませた。そうしてあっという間に配信が終わる。

「ごはん出来たけどー?」

 見終わった頃には母が夕食を拵えていて、外の雨はやんでいて、茉莉から『今日の井学ちゃん』と写真が届いていて、靴下は渇いていた。

 生産性には欠けるが、カワイイ時間を過ごしたので紫陽は有意義だったと結論づける。
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