01

文字数 2,638文字

     ☆

 井学(いがく)南斗(みなと)は、天才だった。

 慶都大学理学研究科分子生物学専攻博士課程3年に属する彼は、修士課程在学時に閃いたアイデアを元に数多のポジティブデータを産み出し、それは研究室の教授を驚愕させると同時に自然科学の世界へ大きな衝撃を与えた。これだけ自然が未知に溢れていながら、どうして同期や先輩が研究の壁に当たって絶望していくのか、彼には理解できなかった。

 彼はまた自身のその実績に由来して多くの経済的支援を受けていた。研究者の墓場と呼ばれる我が国のアカデミア問題は彼にとっては無縁であった。不満があれば海外に渡ればよいのにと、一般人が言語や経済面で苦労することも考慮せずに呑気な対案ばかり考えていた。またその経歴を振りかざして、学部時代から稼ぎの良い教育業にも従事していた。副業禁止だという奨学金のルールを彼は留意していなかった。むしろ自分のように優秀な人間は若い世代に知識を継承して然るべきだとまで思っていた。

 先日、井学の姉が倒れた。彼女の入院費は彼が全て払った。親のことは信用していなかった。学費は免除され、家賃を含む生活費は全て自力で(まかな)っている。これをもって親孝行していると満足し、実家へはあまり帰省していない。

 彼は世間に多数の疑問を抱えていたが、特に不可解だったのは、自分のような優秀な人間であってもその思想をばら撒くのをあまり歓迎されないところであった。ひとたび、努力不足の人間を非難すれば、世間は束になってその環境や運の不平等を唱える。経済は資本主義でありながら、才能は永遠に社会主義であることを望む大衆が彼は好きではなかった。せめて税のように法律的な制度を定めてほしいと考えていた。

 こういう話をすると、彼はアルバイト先の生徒から「キモい」と非難される。それを本気にはしていなかったが、あらゆる場所で自分の人格を非難されるうち、才能の社会還元を謳うのが望ましい生き方だと気づいた。しかしそのためにはもっと援助をうけ、さらに研究に専念しなければならない。

「あと1ヶ月か……」

 カレンダーを見て彼はロサンゼルスに思いを馳せる。学会まであと1ヶ月。そこで今持っているデータを発表することは、社会へ、世界へ自分の能力を還元する、この上ないチャンスであった。

「その日まで下手なことはできないな。……そんなことありえないだろうが」

 缶ビールを口にして、未来の自分に1人で乾杯する。

 心地よくなった頭で、失敗したときに見える世界はどんなものなのだろうと空想してみた。



 4月10日 (月)

 森羅万象は、カワイくなければならない。

 鏡を見て、今日の自分を確認しながら、愛宕(あたご)紫陽(しはる)はそう思った。首にかけたペンダントが、振り向いた拍子、物理的に揺れる。

 生きているとカワイくないこともある。紫陽は、10年も生きているから世の中のその真理を知っている。学校の宿題は、その最たる例だろう。

 他にもカワイくないことはある。

「いただきます」
「紫陽、宿題やった?」
「やった。朝にな」
「ちゃんとその日に終わらせなさいよ」

 カワイくない母の小言を無視して、食パンを(かじ)りながら朝の情報番組を見る。面白くないけどこれしか目に入れるものがないので仕方ない。バターは甘くてカワイイ。流行りのカワイイ女優は、1人も紫陽が知らない人たちだったけど、クラスではしゃいでいるようなカワイイ女子ならこんな浅い話題でも盛り上がれるのだろうと思った。生き様は同意できなくても、紫陽はカワイイの味方だ。

 家を出ると近所のおばさんが散歩している犬にひどく吠えられた。こいつは昔からよく紫陽に吠える。

「ワンッ! ワンッ!」
「あーごめんなさいね紫陽ちゃん」
「大丈夫。昔からこうだ」
「グルル……」

 紫陽は犬に手を差し伸べてみる。カワイくないことがあればカワイくしてやる。紫陽の信念だった。そうすれば世界は皆がカワイくなる。

「ほーらいい子。よしよ「ウー、ガウッ!」」

 撫でるのも最後までままならない。こうやって失敗することもある。

     ◆

 朝、学校に着くとクラスはすでに賑やかだった。この喧騒を聞くと1日が始まる心地がする。

「おはよう。茉莉(まつり)

 紫陽には小学校3年生からずっとクラスが同じ友人がいた。名を幽谷(ゆうこく)茉莉という。端的に言って、アホなやつだった。

「……。……あっ、紫陽っ! おっす! すまん、魂抜けて散歩してたわ!」
「朝からよくやるな」

 魂が抜けていたとは比喩ではなくて、彼女は体を抜け出して幽体になることができる。小学校1年生のとき、異様に足の早い男子がいた。2年生のとき、勉強をしていないのに物知りな女子がいた。そして3年生のときに出会った茉莉は、体を抜け出して幽体になることができた。それらは、全て同じ類のものだと紫陽は思っている。

「最近遊べねえからなあ、塾がだるくて」
「ずっと勉強漬けか」
「まあ、ほんとはそんなにやってないんだけど」
「なんだそれ」
「いやでも聞いて!? ガチで。担当の先生がね、めっちゃキモいの。マジ。ビビるよ」
「どういうことだ? カワイくないってことか」
「いや、可愛くないのは大前提よ。なんか、説明むずいしモノマネもむずいけど、ガチキモい! 見に来る!?」

 茉莉は朝から言葉遣いがカワイくない。ただし平生そういうやつだった。

「言っていいのか?」
「かもんかもん。体験授業ってことにして先生だけ見てみたら」
「興味深いな。もしカワイくないなら私がカワイくしてやる」
「井学ちゃんが可愛くなったら私腰抜かすわ」

 井学、というのがおそらく茉莉の担当講師なのだろう。どんな顔か想像しようとして名字だけの情報は材料が足らなさすぎるのでやめた。

「それじゃ、こんど気が向いたらいく」
「来なさそうな感じの返事やめろ!」
「気が向いたら行く。それに加えて非常に気が向いている」
「もう、井学ちゃんに話通しておくもんねー。絶対に来させてやる」

 茉莉が口を尖らせる。

 教師が入ってきそうな雰囲気を感じ取ったので、紫陽は自分の席へと戻った。その感覚は、時間や経験に由来するものじゃなくて。

「……」

 ちらり、と席に向かう途中で彼女の方向を見た。幣原(しではら)篝火(かがりび)。彼女はいつも本を読んでいる。賑やかな朝も、騒がしい休み時間も、ずっと。その彼女が本を閉じたら、教師がくる合図なのだ。紫陽はいつもそれを参考にして茉莉の席を離れている。

 彼女とは会話したことがない。ただ、やけに気になってしまって、こうやっていまも視線を送ってしまうのだった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み