04
文字数 4,125文字
6月27日 (火)
それから1週間、茉莉 は学校を休んだ。教野 は何も言わなかった。既読はまだついていない。星空繋 はずっと活動休止していて、紫陽 はこの問題について全く進捗を産んでいなかった。
何もしていないのに、体力だけがすり減っていく。
このところ暇な放課後が続いているので、今日は駄菓子を買って公園で1人食べた。水飴の甘いのはカワイイ。梅こんぶのしょっぱいのもカワイイ。だけどどこか気分が晴れない。ブランコは一定の振れ幅から動かない。たまに気が向いたら土を蹴って、風を浴びる。それくらいしか暇つぶしがなかった。ニュースや動画サイトは、星空繋について調べた結果、動画投稿者や配信者のものがサジェストされるようになった。毎日、名前も知らない有名人がどこかで炎上して、闇を見せたと世間を騒がす。火をつけるのは誰か。
世界がカワイイで構成されているという事実はどこまで信用できるのだろう、と考えた。町中で退屈そうにスマホを触っている人々は星空繋の悪口を書き込んでいるかもしれなくて、教室で無邪気にはしゃいでいるクラスメイトの家には茉莉が監禁されているかもしれない。給食が食道の辺りまで押し寄せてきたのを、なんとか胃に戻した。
この世にはカワイイ黄昏とカワイくない黄昏というものがあって、前者はどこか全能感を与えてくれるから楽しいのだが、ただ暗い物思いに耽るだけの今は間違いなく後者だ。
ボーッとしていたら、見覚えのあるような人影が公園に入ってくるように見えて、それは確実に知っている人だと分かったとき、彼女は間違いなく紫陽の方へ向かってきていた。
「あの……愛宕 さん……。2組の……幣原 だけど……」
メガネ奥の瞳が紫陽を捉えた。いつも本を読んでいる寡黙なクラスメイト、幣原篝火 だ。
「幣原? どうした。1人で公園に来るなんて、相当変わってるな」
「愛宕さんも、1人で来てる……」
「私は水飴と梅こんぶがいるから3人だぞ」
「そう……」
幣原と会話をするのは難しいと思った。黙った彼女は、ランドセルを降ろして中を弄っている。
「あの、これ……」
そして、小さな紙切れを差し出した。
紙上に、住所が書かれている。
「……? なんだ、これは」
「幽谷さん……ここにいると思う……」
「なに?」
ずっと会えていない彼女の名前。教野が出席をとっても、絶対に返事をしない名前。
「幽谷 さん、怪我はしていない……けど、早く助けてあげた方が、みんな心配してるし……」
紫陽はメモを凝視した。書かれている住所は、かなり近い。小学校の学区内だ。
「ありがとう。参考にする」
口を閉じたまま幣原は頷いて、ランドセルを背負った。住所を見ていたらどうしても気になって、紫陽は彼女に問う。
「すまない。なぜ、幣原がこれを? それに、私がここにいるのもどうして分かった?」
極めて真剣な表情で彼女は口を開く。
「……趣味、だからかな」
振り向いた拍子、彼女のランドセルにキーホルダーがついているのが見えた。星空繋だ。幣原もファンなのだろうか。どこかで悪口を書いている人間がいる以上に、彼女を応援している人もいる。紫陽はちょっと嬉しくなった。
5年2組は、変なやつの多いクラスだ。
◆
藁にも縋る思いだった。幣原の言ったことを信用して、アパートの一室へ向かう。
表札はなかった。関係のない人だったなら謝ればいい。意を決してインターホンを押す。押してから、何か護身用の鈍器でも持ってこれば良かったと思った。
「……はい」
ノイズ混じりに答えた声は、紫陽と同い年くらいの女の子の声。
「そこに幽谷茉莉はいるか? 彼女の友達だ。居たら教えてほしい。警察に通報する準備もできている」
「……」
プツリ、とインターホンが切れる。逃げられたか、と紫陽が思った矢先、ドアが開いた。全身がこわばる。
「愛宕、紫陽ちゃん」
ドアを開いたのは。
「ようやく、来てくれたんだ。今日の学校ぶりだね」
「貴様は……」
「ふふっ。まさに、茉莉ちゃんを監禁したのはこの私」
「えーっと」
「?」
「すまん、名前をド忘れした」
「えっ」
「本当にすまない」
「いいところだったのにー!?」
◆
彼女は自ら名乗り出た。同じ2組の、告中 瑠奈 。手紙には名前を書かないくせに自己紹介は即座にしてくれた。
暗闇から、ドアにかかったチェーン越し、告中が紫陽のことを見ている。
「貴様か。ずっと私に果たし状を送っていたのは」
「果たし状? あのラブレターのこと?」
「どっちでもいい」
「その通り。というか聞かなくても分かるでしょ?」
「どうしてだ」
「ちゃんと告中瑠奈より、って書いてあったじゃん」
「は?」
紫陽は鞄からひとつ手紙を取り出してみる。筆跡鑑定用に維持していた手紙。やはり、どこにも差出人は書いていない。
「いや、やっぱり書いてない」
「え、うそ」
チェーンが解除されて扉が開く。告中は紫陽の手元にある手紙を見た。
「ほら、書かれてないだろ」
「この手紙だけじゃなくて?」
「おそらく、全部だ。というか差出人が分かっていたらとっくに出向いている」
「あぁ……嘘……」
告中は息を呑んだ。
「私のおっちょこちょい……」
「まさか、テストで名前を書き忘れていたのも貴様か?」
「なんでそのことを!? たしかに、私、前のテストは名前を書き忘れて先生に注意されたけど」
「そんなポカをするやつがおるものか」
告中は頬を赤らめて顔を覆った。名前を書き忘れたことが相当恥ずかしいらしい。見直せばいいのに、と紫陽は思う。
「てことは、私はずっと紫陽ちゃんに無視されてると勘違いして」
「そうだ。私に大量の手紙を送りつけた」
「そんな。全部、名前を書き忘れていたなんて」
「ミスしたものは仕方ない。それより」
紫陽は、玄関へ足を踏み入れる。生ゴミとカップラーメンの汁の匂いが鼻をついた。
「茉莉がここにいるな? 申し訳ないが、彼女のことは解放してもらおう」
「あ、待って紫陽ちゃん」
腕を掴もうとする告中を払って洋室へ向かう。キッチンの洗い物はそのままで、部屋はひどく散らかっていた。告中の両親は何をやっているのだろう、と紫陽は思った。
◆
散らかった部屋の真ん中で、茉莉が横になっている。
「茉莉! 茉莉!?」
息はしている。たぶん、この感じは、幽体になっているだけだ。監禁の苦痛から逃れるためか。だとしたら、こちらに合図を送ってくれても良いのに、と彼女を恨みつつ、ひとまず生きていたことに安堵した。
「えっと、茉莉ちゃんは」
「良かった。無事みたいだな」
「でも、最近ずっとそんな感じで動かなくて、ちゃんとご飯は食べさせているのだけど」
「これは茉莉の特性みたいなものだ、気にするな」
告中は理解できていなかったようだが、しばらくしてから、「そうなの、良かったあ」と大きく息を吐いた。
「貴様の両親は、家族じゃない女の子がずっと一緒にいて何も言わなかったのか? 不思議だな」
告中とは目が合わない。
「茉莉には、何もしてないな」
「うん。……おしゃべりの相手になってもらってたけど、それだけ」
「そうか、ならいい」
茉莉の魂が体に戻るまで、紫陽はここを出ることができない。どうしようもないので、茉莉の隣で立ったまま彼女が帰ってくるのを待つ。ずっと黙っていると、この部屋の異質な匂いと妙に暗いのが気になってくる。
「あの、お茶とか、淹れる?」
告中はそわそわしながら言った。
「いや、別にいい。それよりだな」
ずっと、気になっていたこと。
「どうして、こんなことをした? なぜ、茉莉を拉致した?」
「それは」
「なんだ」
「私の勘違いで、紫陽ちゃんに無視されてると思ったから、振り向いてほしくて」
「初めに私へラブレターを送ったきっかけはなんだ。私のことが好きなのか」
「そうじゃ、ないんだけど」
紫陽は勝手にフラれた。
「じゃあ、何故だ」
「その、ラブレターって形にしたら来てもらえるかと思って」
「そこまでして、私に何の用事が?」
彼女は俯いたまま答えない。肝心なところでカワイくなくなるのは、紫陽の好まないとこである。
「怒りたい、とかではない。貴様がカワイくない拉致をしたことを簡単に許すつもりはないが、それでも、まだ貴様はカワイくなれる余地がある。理由を聞けば、私がカワイくなる方向に導けるかもしれないのだ。だから、教えてほしい」
ゆっくりと顔を上げて、告中は紫陽の胸を見た。
「……ペンダント。その、ペンダントが欲しかったの。どうしても、理由があって」
この、カワイイペンダントを? これを欲しがるなんて、どこまでも妙なやつだ。
「なんのためだ?」
「……お金」
「は?」
「お金のため。生活の足しになるかもしれないと思って。そのペンダント、高そうだから。人のものだから簡単に貰えないって分かってる。でも、どうしてもお金が必要だったから」
「か、金?」
意外だった。告中は、他のものでも代用できるような用事のために、選択肢の1つとしてカワイイペンダントに目をつけた。そうして何度も紫陽を呼び出そうとし、最終的には茉莉を誘拐した。
どうしてそこまでしてお金が、と聞こうとして、別の部屋からうめき声のような女性の声が聞こえた。紫陽は何を言っていたのか聞き取れなかったが、告中は全身を震わせながら反応して、キッチンからお茶とコップを取り出した。
「ごめん、ちょっとまってね」
何茶か分からない液体が、さっきまで乾かされていたコップの中に注がれていく。コップの中を満たしながら、告中は紫陽に話しかける。
「この家、汚いでしょ。掃除しなよ、って思わなかった?」
紫陽は何も答えない。事実を伝えるより黙る方がカワイイと思った。
「できないの。時間がないから。私は、みんなと違って、宿題以外にも、たくさんやることがある」
彼女はコップを持って隣の部屋の引き戸を開けた。地面に横たわった髪の毛だけが見える。告中は暗闇に微笑んで、「はい、お母さん」とだけ言った。そうして戻ってくる。
「お父さんが、知らない女の人と不倫して、急にいなくなって、私の生活は、もうめちゃくちゃ」
そう言った彼女は、同い年に見えないような、違う世界に住んでいる人間のような、そんな遠い目をしていた。
それから1週間、
何もしていないのに、体力だけがすり減っていく。
このところ暇な放課後が続いているので、今日は駄菓子を買って公園で1人食べた。水飴の甘いのはカワイイ。梅こんぶのしょっぱいのもカワイイ。だけどどこか気分が晴れない。ブランコは一定の振れ幅から動かない。たまに気が向いたら土を蹴って、風を浴びる。それくらいしか暇つぶしがなかった。ニュースや動画サイトは、星空繋について調べた結果、動画投稿者や配信者のものがサジェストされるようになった。毎日、名前も知らない有名人がどこかで炎上して、闇を見せたと世間を騒がす。火をつけるのは誰か。
世界がカワイイで構成されているという事実はどこまで信用できるのだろう、と考えた。町中で退屈そうにスマホを触っている人々は星空繋の悪口を書き込んでいるかもしれなくて、教室で無邪気にはしゃいでいるクラスメイトの家には茉莉が監禁されているかもしれない。給食が食道の辺りまで押し寄せてきたのを、なんとか胃に戻した。
この世にはカワイイ黄昏とカワイくない黄昏というものがあって、前者はどこか全能感を与えてくれるから楽しいのだが、ただ暗い物思いに耽るだけの今は間違いなく後者だ。
ボーッとしていたら、見覚えのあるような人影が公園に入ってくるように見えて、それは確実に知っている人だと分かったとき、彼女は間違いなく紫陽の方へ向かってきていた。
「あの……
メガネ奥の瞳が紫陽を捉えた。いつも本を読んでいる寡黙なクラスメイト、幣原
「幣原? どうした。1人で公園に来るなんて、相当変わってるな」
「愛宕さんも、1人で来てる……」
「私は水飴と梅こんぶがいるから3人だぞ」
「そう……」
幣原と会話をするのは難しいと思った。黙った彼女は、ランドセルを降ろして中を弄っている。
「あの、これ……」
そして、小さな紙切れを差し出した。
紙上に、住所が書かれている。
「……? なんだ、これは」
「幽谷さん……ここにいると思う……」
「なに?」
ずっと会えていない彼女の名前。教野が出席をとっても、絶対に返事をしない名前。
「
紫陽はメモを凝視した。書かれている住所は、かなり近い。小学校の学区内だ。
「ありがとう。参考にする」
口を閉じたまま幣原は頷いて、ランドセルを背負った。住所を見ていたらどうしても気になって、紫陽は彼女に問う。
「すまない。なぜ、幣原がこれを? それに、私がここにいるのもどうして分かった?」
極めて真剣な表情で彼女は口を開く。
「……趣味、だからかな」
振り向いた拍子、彼女のランドセルにキーホルダーがついているのが見えた。星空繋だ。幣原もファンなのだろうか。どこかで悪口を書いている人間がいる以上に、彼女を応援している人もいる。紫陽はちょっと嬉しくなった。
5年2組は、変なやつの多いクラスだ。
◆
藁にも縋る思いだった。幣原の言ったことを信用して、アパートの一室へ向かう。
表札はなかった。関係のない人だったなら謝ればいい。意を決してインターホンを押す。押してから、何か護身用の鈍器でも持ってこれば良かったと思った。
「……はい」
ノイズ混じりに答えた声は、紫陽と同い年くらいの女の子の声。
「そこに幽谷茉莉はいるか? 彼女の友達だ。居たら教えてほしい。警察に通報する準備もできている」
「……」
プツリ、とインターホンが切れる。逃げられたか、と紫陽が思った矢先、ドアが開いた。全身がこわばる。
「愛宕、紫陽ちゃん」
ドアを開いたのは。
「ようやく、来てくれたんだ。今日の学校ぶりだね」
「貴様は……」
「ふふっ。まさに、茉莉ちゃんを監禁したのはこの私」
「えーっと」
「?」
「すまん、名前をド忘れした」
「えっ」
「本当にすまない」
「いいところだったのにー!?」
◆
彼女は自ら名乗り出た。同じ2組の、
暗闇から、ドアにかかったチェーン越し、告中が紫陽のことを見ている。
「貴様か。ずっと私に果たし状を送っていたのは」
「果たし状? あのラブレターのこと?」
「どっちでもいい」
「その通り。というか聞かなくても分かるでしょ?」
「どうしてだ」
「ちゃんと告中瑠奈より、って書いてあったじゃん」
「は?」
紫陽は鞄からひとつ手紙を取り出してみる。筆跡鑑定用に維持していた手紙。やはり、どこにも差出人は書いていない。
「いや、やっぱり書いてない」
「え、うそ」
チェーンが解除されて扉が開く。告中は紫陽の手元にある手紙を見た。
「ほら、書かれてないだろ」
「この手紙だけじゃなくて?」
「おそらく、全部だ。というか差出人が分かっていたらとっくに出向いている」
「あぁ……嘘……」
告中は息を呑んだ。
「私のおっちょこちょい……」
「まさか、テストで名前を書き忘れていたのも貴様か?」
「なんでそのことを!? たしかに、私、前のテストは名前を書き忘れて先生に注意されたけど」
「そんなポカをするやつがおるものか」
告中は頬を赤らめて顔を覆った。名前を書き忘れたことが相当恥ずかしいらしい。見直せばいいのに、と紫陽は思う。
「てことは、私はずっと紫陽ちゃんに無視されてると勘違いして」
「そうだ。私に大量の手紙を送りつけた」
「そんな。全部、名前を書き忘れていたなんて」
「ミスしたものは仕方ない。それより」
紫陽は、玄関へ足を踏み入れる。生ゴミとカップラーメンの汁の匂いが鼻をついた。
「茉莉がここにいるな? 申し訳ないが、彼女のことは解放してもらおう」
「あ、待って紫陽ちゃん」
腕を掴もうとする告中を払って洋室へ向かう。キッチンの洗い物はそのままで、部屋はひどく散らかっていた。告中の両親は何をやっているのだろう、と紫陽は思った。
◆
散らかった部屋の真ん中で、茉莉が横になっている。
「茉莉! 茉莉!?」
息はしている。たぶん、この感じは、幽体になっているだけだ。監禁の苦痛から逃れるためか。だとしたら、こちらに合図を送ってくれても良いのに、と彼女を恨みつつ、ひとまず生きていたことに安堵した。
「えっと、茉莉ちゃんは」
「良かった。無事みたいだな」
「でも、最近ずっとそんな感じで動かなくて、ちゃんとご飯は食べさせているのだけど」
「これは茉莉の特性みたいなものだ、気にするな」
告中は理解できていなかったようだが、しばらくしてから、「そうなの、良かったあ」と大きく息を吐いた。
「貴様の両親は、家族じゃない女の子がずっと一緒にいて何も言わなかったのか? 不思議だな」
告中とは目が合わない。
「茉莉には、何もしてないな」
「うん。……おしゃべりの相手になってもらってたけど、それだけ」
「そうか、ならいい」
茉莉の魂が体に戻るまで、紫陽はここを出ることができない。どうしようもないので、茉莉の隣で立ったまま彼女が帰ってくるのを待つ。ずっと黙っていると、この部屋の異質な匂いと妙に暗いのが気になってくる。
「あの、お茶とか、淹れる?」
告中はそわそわしながら言った。
「いや、別にいい。それよりだな」
ずっと、気になっていたこと。
「どうして、こんなことをした? なぜ、茉莉を拉致した?」
「それは」
「なんだ」
「私の勘違いで、紫陽ちゃんに無視されてると思ったから、振り向いてほしくて」
「初めに私へラブレターを送ったきっかけはなんだ。私のことが好きなのか」
「そうじゃ、ないんだけど」
紫陽は勝手にフラれた。
「じゃあ、何故だ」
「その、ラブレターって形にしたら来てもらえるかと思って」
「そこまでして、私に何の用事が?」
彼女は俯いたまま答えない。肝心なところでカワイくなくなるのは、紫陽の好まないとこである。
「怒りたい、とかではない。貴様がカワイくない拉致をしたことを簡単に許すつもりはないが、それでも、まだ貴様はカワイくなれる余地がある。理由を聞けば、私がカワイくなる方向に導けるかもしれないのだ。だから、教えてほしい」
ゆっくりと顔を上げて、告中は紫陽の胸を見た。
「……ペンダント。その、ペンダントが欲しかったの。どうしても、理由があって」
この、カワイイペンダントを? これを欲しがるなんて、どこまでも妙なやつだ。
「なんのためだ?」
「……お金」
「は?」
「お金のため。生活の足しになるかもしれないと思って。そのペンダント、高そうだから。人のものだから簡単に貰えないって分かってる。でも、どうしてもお金が必要だったから」
「か、金?」
意外だった。告中は、他のものでも代用できるような用事のために、選択肢の1つとしてカワイイペンダントに目をつけた。そうして何度も紫陽を呼び出そうとし、最終的には茉莉を誘拐した。
どうしてそこまでしてお金が、と聞こうとして、別の部屋からうめき声のような女性の声が聞こえた。紫陽は何を言っていたのか聞き取れなかったが、告中は全身を震わせながら反応して、キッチンからお茶とコップを取り出した。
「ごめん、ちょっとまってね」
何茶か分からない液体が、さっきまで乾かされていたコップの中に注がれていく。コップの中を満たしながら、告中は紫陽に話しかける。
「この家、汚いでしょ。掃除しなよ、って思わなかった?」
紫陽は何も答えない。事実を伝えるより黙る方がカワイイと思った。
「できないの。時間がないから。私は、みんなと違って、宿題以外にも、たくさんやることがある」
彼女はコップを持って隣の部屋の引き戸を開けた。地面に横たわった髪の毛だけが見える。告中は暗闇に微笑んで、「はい、お母さん」とだけ言った。そうして戻ってくる。
「お父さんが、知らない女の人と不倫して、急にいなくなって、私の生活は、もうめちゃくちゃ」
そう言った彼女は、同い年に見えないような、違う世界に住んでいる人間のような、そんな遠い目をしていた。