06
文字数 5,276文字
6月ももう終わりを迎えようとしている。さすがにこの時期までなると夜は寒くなくて過ごしやすい。ただ基本的には雨が降っていてジメジメするし、梅雨があけても今度は寒くないどころか暑くなる。心地よい夜は今だけのカワイイ幸運だ。
久しぶりに茉莉 と並んで歩いたように思う。というより、実際は毎日だったのが数週間ぶりな訳だから本当に久しぶりだ。
「瑠奈 ちゃんは、どうして自分の名前を書き忘れたと思う?」
それはクイズなのか哲学なのか。どっちに対する回答にもなるように、紫陽 は「天然なんじゃないか」と答えた。
「ブブーっ。不正解」
「答えがあるのか」
「うん」
どうやらクイズだったらしい。
「瑠奈ちゃんはね。自分の名字が書けないの。書こうとすると、両親が離れたことを思い出しちゃって、手が震える。だから名前を書くのを後回しにするんだけど、そしたらそのまま忘れちゃうんだって」
「それ、本当のやつ?」
「うん。本人から直接聞いたもん」
茉莉の誘拐になったきっかけは紫陽が果たし状を無視し続けたことで、無視した理由は差出人が分からないから、であるから、この事件のそもそものきっかけはやはり告中 の父にある。誹謗中傷をする匿名のように、告中の父も自分の不倫が見ず知らずの女子小学生2人を苦しめたとは思わないだろう。
「全員、被害者なんだよねえ。瑠奈ちゃん、いつか自分の名前が書けるようになるといいな……。じゃないと受験とかヤバいよ!」
受験まで5年はある。5年もあれば治っているだろうと思う一方、ただ時間が経過するだけで告中を取り巻く状況が大きく改善するのか、紫陽は確証が持てなかった。
「難しい顔してんなあ紫陽。まあ私は帰ってこれた訳だし、一旦気楽になろ!」
茉莉は大きく伸びをする。その話題を切り出したのは貴様だろ、と紫陽は心の中でツッコんだ。
「あー、シャバの空気うめ〜!」
「随分と気楽だ。……ずっと監禁されていたのに」
「瑠奈ちゃんのご飯美味しかったからね! お風呂入れてくれたし」
「こっちは相当骨が折れたぞ。当然、心配したしな」
「あっ、心配してくれてたんだ〜?」
「当たり前だ。私だけじゃなくて先生や茉莉の親だって心配しているはず」
「確かに。帰ったら謝んないとねえ。お母さんも、私に久しぶりに会えるから嬉しいっしょ」
「どこまでも楽観的なやつだ……」
そうするうちに茉莉の家の前に着く。自転車のカゴに乗せていた荷物を渡した。
「忘れ物だけないか見とけ」
「はぁい」
中身も見ないでショルダーバッグを肩にかけた。立派なのは返事だけだ。
「じゃあね、送ってくれて助かる」
「同じ方向だから問題ない。……明日から学校に来るのか?」
「うーん、そのつもり」
曖昧な挨拶だけ返して、茉莉はその場を離れようとしない。紫陽も動かなかった。
刹那が、2人の間を通り過ぎる。
「紫陽」
溌剌 を削ぎ落とした声で茉莉が呟いて、紫陽はその方を見た。ふたりとも、どちらかが喋るのをずっと待っていたような気がする。
「……ほんとはね。ちょっとだけ怖かったんだよ。瑠奈ちゃんに襲われたとき、あっ、ここで人生終わるかもって。紫陽と接触するなって言われたとき、どうしたら良いか分からなかったし」
下をむいて、茉莉の指はバッグの紐と絡み合っている。
「そんなものだ。私だって逆の立場だったら怖い」
「助けてくれて、ありがとね」
紫陽は何も答えない。素直に感謝を述べられるのは、特に関係の深い相手だったら、どこかむず痒 い気持ちになる。
ただ、その礼をもってして、紫陽は会話の区切りができたように思えから、ゆっくりと自転車を押し始めた。けれど、茉莉はまだ話したいことがあるように見える。
「その、星空繋 だっけ。その人のところ……、行くの?」
今度の茉莉は、きちんとこちらを見つめている。
「もちろん。告中から大事な預かり物がある」
「そっちの問題も、カワイく解決できそう?」
「事実を素直に伝えて、彼女がそれと向き合えば、世界がカワイくなる方に動く。私はそれを見届けるだけだし、結果としてそうなることを信用している」
「なら、いいけどっ」
トーンの落ちていた茉莉の声が、いつものように活気を帯び始めてくる。
「いつもそうやって私は物事を解決している。不安なことがあるか?」
「そりゃあるよ〜。––––だってさあ」
2、3歩、大股でこちらにやってきた茉莉が、自転車越しに紫陽の頬を包んだ。彼女が腰を曲げて、顔が近くなる。頬に触れた手が柔らかくて、鼻息がくすぐったい。
「ずーっと真面目な顔しているから! 私のせいでしょ! ほら、笑って! カワイイ顔が台無しだって! 紫陽は、私を助けてくれたヒロインなんだぞ!? カワイイ顔しろー!」
こんな感じでっ、と至近距離。茉莉がにぱーっと笑ってみせる。
平生カワイくないくせに、茉莉はこんなところがあるからズルい。
◆
茉莉を送ったその足、というかペダルと2輪で、紫陽は名塚 の家へと向かう。こういうときにフランソワちゃんがあれば便利だと思った。
きっと問題は解決するカワイく解決する。暗くなる街の中で、疲れた体にカワイイ気合を入れた。
「そっかあ」
告中の話を聞いた名塚の反応は案外小さなものだった。ただ、何かを考えたようにずっと部屋の天井を眺めている。
「告中は、2度とこんなことはしないと言っている。母と2人、真っ当に歩んでいくと」
「それで、その子は生活できるの?」
「さあ。……だが、貴様への誹謗中傷が大きく減るのは事実だ」
「対立煽り、ねえ……」
机に飾られた、星空繋のフィギュアに指をなぞらせて、名塚はこちらを見た。
「私、アンチっていうのは、興味があるから非難してくるものだと思ってた。対立さえ煽ればっていうのは、もう、私本人に興味すらないんだね。星空繋を傷つけることをお金稼ぎの手段としか思っていなくて、本当に私のことが嫌いな人は、手を悪に染めることなく、星空繋の悪口を見て、星空繋を叩き棒に他の配信者が叩かれているのを見て、一喜一憂するんだ。なんか、馬鹿げた話だなあ」
紫陽は首にかかったペンダントを握りしめる。自分がカワイイからエネルギーを得るように、他人同士を対立させて、当人を不幸にすることで活力を得る人々がいる。信じたくなかったけど、社会にはそういう人達が一定数いる。たとえば、お互いの相違を認めた上で褒め合うといったカワイイ手段でお金を生むことはできないのだろうか。そういったガキ臭い綺麗事はビジネスにならないのだろうか。大人の世界というのは、よくわからない。他の生徒の悪口を言ったら、真っ先に怒るのは大人なのに。
「紫陽ちゃん、ありがとう。会ったばかりの私のためにここまで頑張ってくれて。世の中、大半はいい人なんだよね。でも、心を蝕んでくるのは、ネットの悪い意見ばかり。……でもね、そういうのばかり気にしすぎるのも良くないかなって、ちょっと休んだら思えるようになった」
名塚がキーボードに触れると、モニターに明かりがついて、SNSの画面が表示される。『#星空生放送』や『#星空のアトリエ』といったタグでが付けられている多くの投稿は、星空繋が休止を発表したときのもので、理由もなく配信を停止した彼女を励ますものばかりだった。
「『星空組』の人は、こんなワガママな私も本気で応援してくれてる。配信のとき、ライブのときは、人間の温かい感情が熱を帯びて私に伝わってくる。……配信を始めたばかりのときの私はこれが好きだったんだ。これからは、応援してくれる人のために、活動したい。だって、その方が、可愛いもんね」
フィルターを介さないでナチュラルメイクの彼女は、キャラクターに負けず劣らずカワイイ顔だ。
◆
「大事なものを忘れていた」
名塚が休止中にも関わらず配信をするというので紫陽は家を出ることにした。きっと、もう電脳世界では多くの人間が待機している。同じ『目に見えない』人でも、彼らはカワイイ感情を携えて星空繋を待ち望んでいる。
「なに、これは?」
「カワイイ短冊だ」
告中から受け取った、120円と水色の短冊。そこには『お母さんが幸せになりますように』とだけ書かれていた。
「貴様をダシに金を稼いでいた告中瑠奈からだ。……彼女は、私と同い年だからアプリから投げ銭ができない。どうしても、これを貴様に渡してほしいと受け取った」
名塚はしばらく黙って、今度は窓の方を見る。
「七夕まで、まだ2週間もあるのに」
「星空繋ならつなげるだろ」
「ふふっ。たしかにね。私は名塚妃弦 だけど」
あいにく、都会の空気と微妙な天気が相まって星は見えない。それでも、名塚はずっと空を見ている。
「あんな書き込みをしていた人が、私に親の命運を授けるなんて、変な話」
「告中は反省して変わった。今は、もとより随分カワイくなったぞ」
「そうやって、他の人も変わってくれたらいいのにね」
「いつか進化の過程でそうなる。誹謗中傷が、馬鹿げた野生動物だけの行いだと認知される日が」
「来るのかなあ?」
「来るだろ。私のこのペンダントは人類の進化の証だ。世界がよりよい方向に進むため、カワイイからエネルギーを得られるように進化した人類の秘宝だ。貴様が電脳世界で別の姿を得て他人を笑顔にするのもまた、人類が進化した結果なんじゃないか」
「なるほど〜」
じゃ、と言って名塚は短冊を、窓と自分の間に手で吊るす。
「『短冊、ありがと〜。星の元へ、君の願いを繋いであげるねっ』」
汚い空に星が見えた気がして、紫陽のペンダントが軽く振れた。
◆
帰り道に、汚い空からフランソワちゃんが降りてきた。それでも空には光が見えるから、やっぱり星が見えるんだと紫陽は嬉しくなった。
「ごきげんよう。愛宕 紫陽」
ヘリの風を受けると思わず顔をしかめてしまう。こういうのを反射というのだろう。
「今回は邪魔をしに来たわけではありません。それは別の機会にすればよいですから」
フランソワちゃんから降りたカガリは、スマホを横向きにして画面を見せる。
「ワタクシの敬愛する繋様が配信を始めましたの。休止中なのに。1週間ぶりですわ。あなたに仕事を依頼したおかげです。あなたに目をつけたワタクシが1番偉いのですけど……2番目の功労者であるあなたにも、お礼をしておく必要があると思いまして」
指を鳴らして、黒服が出てくる。カガリは黒服から小さな袋を受け取って、それを紫陽に渡した。
「あなた確か、痒いだか辛いだか、そんな感じのものをお望みでしたわね」
「カワイイだ」
「あーそれそれ。ご要望にお答えして、それを用意しました。……敬愛する繋様を救ってくれた、あなたへのお礼」
袋は硬い感触がする。少なくとも甘い物ではなさそうだった。脳内で固くてカワイイもの検索が始まる。それを見つけるより前に、カガリに聞くべきことがあると思った。
「お礼は貰っておく。ありがとう。ただ、告中に誹謗中傷を辞めさせたのはカガリ、貴様だろう。私は、あの件に関して何も動くことができなかった。貴様の説得のおかげで、名塚妃弦は暮らしやすくなったに違いない。私は、何もしていない」
「名塚妃弦ではなく繋様ですわ! ……ワタクシは、直接的なことしか告中瑠奈に伝えてません。彼女が正直な人間だっただけです。それに、」
黒服が、体くらいに大きな団扇でカガリのことを扇いでいる。
「あなた。幽谷茉莉が攫われて大変だったらしくて? 申し訳ないですが、ワタクシほど頭がキレないあなたには、2つの事件を追うことなど不可能にみえますわ。ワタクシ、あなたの邪魔をすることに興味があっても、あなた自身を追い詰めることには1ミリも興味ありませんから、自分から繋様を助けるため、勝手に動いたまでです」
カガリの言う通り、紫陽は2つの事件を抱えきることができなかった。別に自分が万事解決に持ち込む名探偵であると認めたことはないが、それでも、カワイくないものはカワイく変える。その信条が、世間の悪と生身でぶつかったときに限界を見せた気がして、気分が沈んでしまっていたのは事実である。
カガリは黙った紫陽の返事を待つことなく、外気は心地悪いですから、とフランソワちゃんに乗り込む。
「1つだけ言っておきますけど、ワタクシは、あなたがいなければ星空繋は活動をやめていたと思っています。あなたみたいに、1つの価値観に囚われるバカ正直な人間なんて、今どきいませんから」
ヘリがうるさい音を立てて飛び立つ。たぶん、彼女なりに褒めてくれた。茉莉の言葉を思い出して、紫陽はヘリに笑いかける。カガリにその顔は見えていないだろうけど、その方が都合がいい。
「たまにはかっこよく退場するのも悪くありませんわ〜!」と相変わらず謎の声量で捨て台詞を吐いてカガリは空と同化した。フランソワちゃんは星との区別がつかなくなる。
カガリがくれた袋の中身は星空繋のキーホルダーで、ただし幣原が持っていたものとは違ってSDの繋だった。
「……そうだ」
繋様呼びをイジり忘れていた。今回だけは渋々許してやる。
久しぶりに
「
それはクイズなのか哲学なのか。どっちに対する回答にもなるように、
「ブブーっ。不正解」
「答えがあるのか」
「うん」
どうやらクイズだったらしい。
「瑠奈ちゃんはね。自分の名字が書けないの。書こうとすると、両親が離れたことを思い出しちゃって、手が震える。だから名前を書くのを後回しにするんだけど、そしたらそのまま忘れちゃうんだって」
「それ、本当のやつ?」
「うん。本人から直接聞いたもん」
茉莉の誘拐になったきっかけは紫陽が果たし状を無視し続けたことで、無視した理由は差出人が分からないから、であるから、この事件のそもそものきっかけはやはり
「全員、被害者なんだよねえ。瑠奈ちゃん、いつか自分の名前が書けるようになるといいな……。じゃないと受験とかヤバいよ!」
受験まで5年はある。5年もあれば治っているだろうと思う一方、ただ時間が経過するだけで告中を取り巻く状況が大きく改善するのか、紫陽は確証が持てなかった。
「難しい顔してんなあ紫陽。まあ私は帰ってこれた訳だし、一旦気楽になろ!」
茉莉は大きく伸びをする。その話題を切り出したのは貴様だろ、と紫陽は心の中でツッコんだ。
「あー、シャバの空気うめ〜!」
「随分と気楽だ。……ずっと監禁されていたのに」
「瑠奈ちゃんのご飯美味しかったからね! お風呂入れてくれたし」
「こっちは相当骨が折れたぞ。当然、心配したしな」
「あっ、心配してくれてたんだ〜?」
「当たり前だ。私だけじゃなくて先生や茉莉の親だって心配しているはず」
「確かに。帰ったら謝んないとねえ。お母さんも、私に久しぶりに会えるから嬉しいっしょ」
「どこまでも楽観的なやつだ……」
そうするうちに茉莉の家の前に着く。自転車のカゴに乗せていた荷物を渡した。
「忘れ物だけないか見とけ」
「はぁい」
中身も見ないでショルダーバッグを肩にかけた。立派なのは返事だけだ。
「じゃあね、送ってくれて助かる」
「同じ方向だから問題ない。……明日から学校に来るのか?」
「うーん、そのつもり」
曖昧な挨拶だけ返して、茉莉はその場を離れようとしない。紫陽も動かなかった。
刹那が、2人の間を通り過ぎる。
「紫陽」
「……ほんとはね。ちょっとだけ怖かったんだよ。瑠奈ちゃんに襲われたとき、あっ、ここで人生終わるかもって。紫陽と接触するなって言われたとき、どうしたら良いか分からなかったし」
下をむいて、茉莉の指はバッグの紐と絡み合っている。
「そんなものだ。私だって逆の立場だったら怖い」
「助けてくれて、ありがとね」
紫陽は何も答えない。素直に感謝を述べられるのは、特に関係の深い相手だったら、どこかむず
ただ、その礼をもってして、紫陽は会話の区切りができたように思えから、ゆっくりと自転車を押し始めた。けれど、茉莉はまだ話したいことがあるように見える。
「その、
今度の茉莉は、きちんとこちらを見つめている。
「もちろん。告中から大事な預かり物がある」
「そっちの問題も、カワイく解決できそう?」
「事実を素直に伝えて、彼女がそれと向き合えば、世界がカワイくなる方に動く。私はそれを見届けるだけだし、結果としてそうなることを信用している」
「なら、いいけどっ」
トーンの落ちていた茉莉の声が、いつものように活気を帯び始めてくる。
「いつもそうやって私は物事を解決している。不安なことがあるか?」
「そりゃあるよ〜。––––だってさあ」
2、3歩、大股でこちらにやってきた茉莉が、自転車越しに紫陽の頬を包んだ。彼女が腰を曲げて、顔が近くなる。頬に触れた手が柔らかくて、鼻息がくすぐったい。
「ずーっと真面目な顔しているから! 私のせいでしょ! ほら、笑って! カワイイ顔が台無しだって! 紫陽は、私を助けてくれたヒロインなんだぞ!? カワイイ顔しろー!」
こんな感じでっ、と至近距離。茉莉がにぱーっと笑ってみせる。
平生カワイくないくせに、茉莉はこんなところがあるからズルい。
◆
茉莉を送ったその足、というかペダルと2輪で、紫陽は
きっと問題は解決するカワイく解決する。暗くなる街の中で、疲れた体にカワイイ気合を入れた。
「そっかあ」
告中の話を聞いた名塚の反応は案外小さなものだった。ただ、何かを考えたようにずっと部屋の天井を眺めている。
「告中は、2度とこんなことはしないと言っている。母と2人、真っ当に歩んでいくと」
「それで、その子は生活できるの?」
「さあ。……だが、貴様への誹謗中傷が大きく減るのは事実だ」
「対立煽り、ねえ……」
机に飾られた、星空繋のフィギュアに指をなぞらせて、名塚はこちらを見た。
「私、アンチっていうのは、興味があるから非難してくるものだと思ってた。対立さえ煽ればっていうのは、もう、私本人に興味すらないんだね。星空繋を傷つけることをお金稼ぎの手段としか思っていなくて、本当に私のことが嫌いな人は、手を悪に染めることなく、星空繋の悪口を見て、星空繋を叩き棒に他の配信者が叩かれているのを見て、一喜一憂するんだ。なんか、馬鹿げた話だなあ」
紫陽は首にかかったペンダントを握りしめる。自分がカワイイからエネルギーを得るように、他人同士を対立させて、当人を不幸にすることで活力を得る人々がいる。信じたくなかったけど、社会にはそういう人達が一定数いる。たとえば、お互いの相違を認めた上で褒め合うといったカワイイ手段でお金を生むことはできないのだろうか。そういったガキ臭い綺麗事はビジネスにならないのだろうか。大人の世界というのは、よくわからない。他の生徒の悪口を言ったら、真っ先に怒るのは大人なのに。
「紫陽ちゃん、ありがとう。会ったばかりの私のためにここまで頑張ってくれて。世の中、大半はいい人なんだよね。でも、心を蝕んでくるのは、ネットの悪い意見ばかり。……でもね、そういうのばかり気にしすぎるのも良くないかなって、ちょっと休んだら思えるようになった」
名塚がキーボードに触れると、モニターに明かりがついて、SNSの画面が表示される。『#星空生放送』や『#星空のアトリエ』といったタグでが付けられている多くの投稿は、星空繋が休止を発表したときのもので、理由もなく配信を停止した彼女を励ますものばかりだった。
「『星空組』の人は、こんなワガママな私も本気で応援してくれてる。配信のとき、ライブのときは、人間の温かい感情が熱を帯びて私に伝わってくる。……配信を始めたばかりのときの私はこれが好きだったんだ。これからは、応援してくれる人のために、活動したい。だって、その方が、可愛いもんね」
フィルターを介さないでナチュラルメイクの彼女は、キャラクターに負けず劣らずカワイイ顔だ。
◆
「大事なものを忘れていた」
名塚が休止中にも関わらず配信をするというので紫陽は家を出ることにした。きっと、もう電脳世界では多くの人間が待機している。同じ『目に見えない』人でも、彼らはカワイイ感情を携えて星空繋を待ち望んでいる。
「なに、これは?」
「カワイイ短冊だ」
告中から受け取った、120円と水色の短冊。そこには『お母さんが幸せになりますように』とだけ書かれていた。
「貴様をダシに金を稼いでいた告中瑠奈からだ。……彼女は、私と同い年だからアプリから投げ銭ができない。どうしても、これを貴様に渡してほしいと受け取った」
名塚はしばらく黙って、今度は窓の方を見る。
「七夕まで、まだ2週間もあるのに」
「星空繋ならつなげるだろ」
「ふふっ。たしかにね。私は名塚
あいにく、都会の空気と微妙な天気が相まって星は見えない。それでも、名塚はずっと空を見ている。
「あんな書き込みをしていた人が、私に親の命運を授けるなんて、変な話」
「告中は反省して変わった。今は、もとより随分カワイくなったぞ」
「そうやって、他の人も変わってくれたらいいのにね」
「いつか進化の過程でそうなる。誹謗中傷が、馬鹿げた野生動物だけの行いだと認知される日が」
「来るのかなあ?」
「来るだろ。私のこのペンダントは人類の進化の証だ。世界がよりよい方向に進むため、カワイイからエネルギーを得られるように進化した人類の秘宝だ。貴様が電脳世界で別の姿を得て他人を笑顔にするのもまた、人類が進化した結果なんじゃないか」
「なるほど〜」
じゃ、と言って名塚は短冊を、窓と自分の間に手で吊るす。
「『短冊、ありがと〜。星の元へ、君の願いを繋いであげるねっ』」
汚い空に星が見えた気がして、紫陽のペンダントが軽く振れた。
◆
帰り道に、汚い空からフランソワちゃんが降りてきた。それでも空には光が見えるから、やっぱり星が見えるんだと紫陽は嬉しくなった。
「ごきげんよう。
ヘリの風を受けると思わず顔をしかめてしまう。こういうのを反射というのだろう。
「今回は邪魔をしに来たわけではありません。それは別の機会にすればよいですから」
フランソワちゃんから降りたカガリは、スマホを横向きにして画面を見せる。
「ワタクシの敬愛する繋様が配信を始めましたの。休止中なのに。1週間ぶりですわ。あなたに仕事を依頼したおかげです。あなたに目をつけたワタクシが1番偉いのですけど……2番目の功労者であるあなたにも、お礼をしておく必要があると思いまして」
指を鳴らして、黒服が出てくる。カガリは黒服から小さな袋を受け取って、それを紫陽に渡した。
「あなた確か、痒いだか辛いだか、そんな感じのものをお望みでしたわね」
「カワイイだ」
「あーそれそれ。ご要望にお答えして、それを用意しました。……敬愛する繋様を救ってくれた、あなたへのお礼」
袋は硬い感触がする。少なくとも甘い物ではなさそうだった。脳内で固くてカワイイもの検索が始まる。それを見つけるより前に、カガリに聞くべきことがあると思った。
「お礼は貰っておく。ありがとう。ただ、告中に誹謗中傷を辞めさせたのはカガリ、貴様だろう。私は、あの件に関して何も動くことができなかった。貴様の説得のおかげで、名塚妃弦は暮らしやすくなったに違いない。私は、何もしていない」
「名塚妃弦ではなく繋様ですわ! ……ワタクシは、直接的なことしか告中瑠奈に伝えてません。彼女が正直な人間だっただけです。それに、」
黒服が、体くらいに大きな団扇でカガリのことを扇いでいる。
「あなた。幽谷茉莉が攫われて大変だったらしくて? 申し訳ないですが、ワタクシほど頭がキレないあなたには、2つの事件を追うことなど不可能にみえますわ。ワタクシ、あなたの邪魔をすることに興味があっても、あなた自身を追い詰めることには1ミリも興味ありませんから、自分から繋様を助けるため、勝手に動いたまでです」
カガリの言う通り、紫陽は2つの事件を抱えきることができなかった。別に自分が万事解決に持ち込む名探偵であると認めたことはないが、それでも、カワイくないものはカワイく変える。その信条が、世間の悪と生身でぶつかったときに限界を見せた気がして、気分が沈んでしまっていたのは事実である。
カガリは黙った紫陽の返事を待つことなく、外気は心地悪いですから、とフランソワちゃんに乗り込む。
「1つだけ言っておきますけど、ワタクシは、あなたがいなければ星空繋は活動をやめていたと思っています。あなたみたいに、1つの価値観に囚われるバカ正直な人間なんて、今どきいませんから」
ヘリがうるさい音を立てて飛び立つ。たぶん、彼女なりに褒めてくれた。茉莉の言葉を思い出して、紫陽はヘリに笑いかける。カガリにその顔は見えていないだろうけど、その方が都合がいい。
「たまにはかっこよく退場するのも悪くありませんわ〜!」と相変わらず謎の声量で捨て台詞を吐いてカガリは空と同化した。フランソワちゃんは星との区別がつかなくなる。
カガリがくれた袋の中身は星空繋のキーホルダーで、ただし幣原が持っていたものとは違ってSDの繋だった。
「……そうだ」
繋様呼びをイジり忘れていた。今回だけは渋々許してやる。