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文字数 2,393文字

 4月18日 (火)

「大変だ大変だ紫陽(しはる)ゥ!」
「もう少し静かに騒げないのか」

 大変だ大変だ紫陽、と限りなく小さい声で言い直してから、茉莉(まつり)は話を切り出した。

井学(いがく)ちゃんが、別人になっちゃった」
「あの全能感大学生か?」
「よくわからないけど、多分そう」

 そうして、茉莉は『井学ちゃん変わっちゃった事件』の内容を語り始めた。ここのところやけに井学の雰囲気が暗い。そこで茉莉が聞いてみると、実験が上手くいかず、加えて教授から、行く予定だった学会に来ないように連絡を受けた。それでどうしても気分が沈むという。

 最後に茉莉は「話聞いてるやるだけで授業1コマ全部終わったから、ガチで最高だった」と何故か得意気にいった。

「それで、私はどうしたらいいんだ」
「何とかカワイイところを見つけてあげてよ。キモいってもさ、嫌いな訳じゃないし。そりゃ今は大人しいから相手しやすいけどー、まあ、でも、いつもと違うのってなんか嫌じゃん」
「なるほど、別に嫌ではないが」

 できればずっとカワイイものを摂取していたい。正直なところもう1度彼の長い話を聞かされるのは苦痛だ。あれに付き合うくらいならテストで悪い点を取ったときに見せる最もカワイイ「てへぺろ」を研究するほうがよほど幸福になれる。

「美味しいもん食わせてくれるって、手伝ってくれたら」
「本当か!?」
「うん、マジ。カヌレでも、わらびもちでも、ズコットでも、マリトッツオでも、何でも」
「えげつないなそれは。絶対に手伝おう。私には世界をカワイくする義務がある」

 紫陽はペンダントを握りしめた。このペンダントには不思議な力があるのだ。

 それは、世界のカワイイを感知したとき、そのカワイイエネルギーを利用して、世の中をさらにカワイくするためのヒントを産生するというものである。

 例えばこんなことがあった。

 紫陽が4年生の頃、ダイエットを常に宣言して給食を残すカワイくない女子がいた。過度に痩せているのに、周りは「もう十分痩せているよ!」と定期的に声をかけてあげなければいけない状況だった。そんな彼女が、ある日栄養失調により体調を崩した。次の日から、彼女は親と教師の助言に従って給食を少しずつ食べるようになった。そのとき、ペンダントが揺れる感覚がして、彼女が初めて給食を完食したとき、ペンダントは強い光を放って、紫陽の前にカワイイカスタードプリンを落とした。プリンはその子と2人で食べて、彼女は以降その拒食症とダイエット宣言による過度な自己顕示を克服した。

 こんな感じで、紫陽のもつペンダントは世界をカワイくすることができた。

 このペンダントさえあれば世界をカワイく変えることなど容易だ。本人と接触することさえできれば。

「それで、肝心の井学はどこにいる」
「そこ」

 茉莉は教室の窓から校門の辺りを指した。そこには、世界の終焉を見届けた顔で猫背の井学が立っていた。

 休み時間明けに不審者情報の知らせるプリントが配られて、出現位置が校門の前、もやしみたいな見た目をしている男だと書かれているのを見た時、紫陽は彼に早く忠告せねばと思った。

     ◆

 授業を全て終えて、スイーツに思いを馳せながら、紫陽は校門にいる不審者井学の元に向かった。

 他に帰る生徒の話に耳を澄ませると、一部が彼をみて『猫背おじさん』だなんだと噂している。小学生の未知に対する敵意は尋常でない。

「やあ、井学、1週間ぶりくらいか」
「……ぁ」

 その声が未確認生物ではなくて井学の声だと認識するのに紫陽は2秒かかった。

「しっかりしろ。貴様の気分が沈んでいると茉莉から聞いたから、手をさしのべにきた。ついでにご褒美はカタラーナがいい」
「ああ、愛宕(あたご)さんか……」

 とりあえず、教師に見つかると井学の社会的地位が危ぶまれるので、学校から遠のく方に向かいつつ話をすすめる。

「世界を救うのはJSだと相場が決まっている。なんでも話してくれ」

 トボトボと歩く井学を、紫陽が先導している。

「僕はゴミクズだ……生きてる価値なんてない」
「性格変わりすぎだろ貴様」

 何とか彼の力になりたい、と思った。しかし今の彼はヒゲも剃っていないし、服もダボダボで、1週間前よりさらにカワイイを見出すのが困難になっている。

「姉が倒れてから、色々と不運なことが続いている。……もしかしたら、神様が、お前はもう世に出るなと、言っているのかもしれない」
「意外だな。神様とか、科学漬けの貴様の口から聞くことになるとは」
「科学も宗教みたいなもんだしね。まあ、それは話が拗れるからいいとして。––––姉の看病をする生活も良いかもしれないと思い始めた。社会にこの才能が還元できないなら、弟としての役割を果たすまでだ」

 ペンダントが少し振れる。世界がカワイイを感知して、それを紫陽も享受したとき、このペンダントは、カランと僅かな音を立てて揺れる。そのカワイイが大きければ大きいほど、音も動きも大きくなる。そうして一定のカワイイが溜まったとき、このペンダントは光を放って、世界をカワイイ方向に導くヒントを精製する。

 今、紫陽はカワイイを彼の中に認めた。姉への愛という、想定外のカワイイの井学の中に見つけたからかもしれない。

「そう気を落とすな。生きてりゃ不幸が続くこともある」

 10年も生きた紫陽は26の彼にそう説いた。

「つらいときは甘いものを食べるといい。一気にカワイくなれるぞ」

 井学は力なく返事するだけなので説きようがない。喋っていてむしろ紫陽側のお腹が空いてきた。

「ありがとう愛宕さん。元気出たよ」
「そう言ってもらえると助かる……が、今貴様が話しかけているのは電柱だ」

 上の空のままフラフラと井学はどこかへ行った。大層気が滅入っている。紫陽は茉莉にメッセージを送る。

『すまん、茉莉。頼み事』

 文字を打ち終わると、たまたまクラスの女子と目があった。いつも静かな幣原(しではら)篝火(かがりび)だった。
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