02

文字数 2,627文字

 4月13日 (木)

 入口で病院みたいなスリッパに履き替えて、湿り気と埃の匂いがする机で待機する。廊下とかはなくて、入ればすぐに授業ブースがある。小さな塾だった。

「おーっす紫陽(しはる)!」

 授業開始マイナス1分前に、遅れて茉莉(まつり)が来た。茉莉の声に反応して、ブースから1人、細い男が顔を出す。もやしみたいな男だった。紫陽は野菜が嫌いではないが、もやしは色がなくてあまりカワイくないので、野菜の中では下位に属する。例えばパプリカとかだったらカワイイ。

幽谷(ゆうこく)さん、もう授業始めようか。それと今日は……」

 彼がこちらを見る。

愛宕(あたご)紫陽さんかな。体験授業で来ていると聞きました。担当講師の井学(いがく)です。こちらへどうぞ」

 案内されて、2つ机が並んだ狭いブースの中、茉莉の後ろに座る。

 数秒しか喋ってないが、まだ茉莉の言う『キモい』は見つからない。

     ◆

 始めの30分に話された内容は全て耳から抜けていったような気がする。大体、普段授業も真面目に受けないで、宿題をこなすのすら怪しい紫陽にとって、塾での授業は退屈極まりないものだった。茉莉と同じ授業を受けるものだと思っていたのに、2人別々に違う問題を解かされた。たしか冬に結露ができる理由を記述させられた気がする。全くわからないので脳内でカワイイとは何かについて思慮することで時間を潰した。茉莉も「ダルい」というだけで問題演習をせずにずっと井学と喋っている。わざわざ塾に来てこんなので良いのだろうかと、紫陽は自分を棚にあげて思った。

「井学ちゃんって給料めっちゃいいらしいよ」

 茉莉がこちらを振り向く。

「いや、そんなに貰ってないよ」
「でもいっつもいい時計とかしてるじゃん!」
「あれはお金を貯めてるからね」
「あとお姉さんの入院費も払ってるって」
「幽谷さんは全部喋っちゃうのか」

 彼は苦笑いした。

「井学ちゃん、天才だもんな」
「まあ、それは事実だが」

 茉莉はこちらを見てずっとニヤニヤしている。2人はいつもこうやって雑談しているのだろうか。

「お金があるっていっても、研究者に対する支援金を色々と貰っているだけだから。それは僕が優秀だからであって誰でも貰えるもんじゃないんだけど」

 ちなみに副業は禁止でね、僕は教育を変えたいからこっそりとここで働いている、と井学は言い切った。ブース外にも届く声だった。

「多くの学生と違って、僕は学費も自腹で払ってるんだ。それなのにこの前は姉が倒れちゃって。困るよな。両親は対して稼いでないから、僕が命を削って治療費を出しているんだ。本当なら、僕は世界にこの才能を還元し続けなければならない。重い、重―いノブリスオブリージュを背負っているのに、家族に甘い顔ばっかしているゆとりなんてない」

 何がきっかけか彼のカワイくないスイッチがオンになっているらしい。茉莉はまだ嬉しそうな顔をしてた。

「しかしこれを言うと、今度は学問ばかりで家族を大切にしないのはいけないなんて批判される。だから僕は入院費を払ってるだろうがと、君等は家族のために学生の頃から身を削ったことがあるかい、と僕は問いたくなる。大体、大衆というのは出る杭を打つために生きてるような奴らばかりだ。普段はデマと中傷で公共のため高い税金を払う有名人をバカにしておきながら、政治家がヘマをすると突然自分らの納めた税金がどうのと不平を垂れる。政治家もたいてい好きではないが、あんなバカどもの意見に一々頭を下げる政治家を見ていると同情したくなる。……まあ、僕は大衆と口論したことはないが。というのも、こちらがあらゆる反論を仮定し、立場上全ての意見を尊重するようにしているのに対して、向こうはすぐ感情的になって、人格攻撃やレッテル貼りをしてくるからね。たまったもんじゃない」

 私は放課後の貴重な時間で大学院生の演説を聞きに来たのか。だとしたらなんてカワイくない時間だ、と紫陽は思った。

「あ、愛宕さんごめん。話すぎたね。今後学会があるから、どうしても他人と喋ってリラックスしたくなるんだ。すまない。ちなみに、その学会できっと僕は多くの名声を得ることになるから、もしニュースに出たら、『こいつの授業を受けてた』と周りに自慢してくれていいよ」

 紫陽はあくびをした。正直もう寝たかった。

「じゃ、授業を再開しようか。さっきの結露の問題は答えを見てくれればいいから、もっと面白い内容をやろう」

 それから井学は、『わたしたちの体の運動』という単元を開いて、生物が運動をするのに重要な神経接続や、筋肉が動くときに体の中で分子がどう仕事するのかなどについて難解な言葉を並びたてて話し続けた。授業開始時の平易な言葉遣いは消滅しているし、加えて早口で落ち着きがないから紫陽は頷くだけで精一杯だった。2人の間に温度差で結露ができてもおかしくないと思った。 

     ◆

「な!? めちゃキモかっただろ」

 授業を終えて夜の街を茉莉と歩く。塾があるとこうやって1日が終わるのが勿体ないと紫陽は思った。

「確かに、カワイくない一面はあったな」
「井学ちゃん、熱くなるとマジであんなんなんよ」
「その割に茉莉は楽しそうだったじゃないか」
「だって今日は紫陽がターゲットだったもん! 他人が井学マシンガン食らってるの見ると笑える」

 井学マシンガンとはたぶん彼の早口のことを言っている。

「あれだと授業が進まなくないか」
「いやあ、そうなんだよ。私は点さえ取れたらなんでもいいから、学問の偉大さとか興味ないんだけど」
「でも茉莉、問題解くのも『ダルい』って言って拒否ってただろ」
「あ、バレた? 実はどっちでも文句言う」

 今日は紫陽を盾に授業乗り切ったから楽だったわー、と茉莉は伸びをした。

「あんな感じでとりあえずは1学期乗り切るかあ。先生が次変わるかどうかは運だね」
「4月からそんなんで大丈夫なのか」
「まあ、何とかなるっしょ」

 紫陽はもう2度と会わないだろう井学のことを思い出してみる。あれだけの才能がありながら、性格の面で損をしているのは勿体ないように思う。むしろお淑やかにカワイく振る舞っていれば、もっと世間から評価されるのに、神は2カワイイを与えずというから、きっと人格は母の胎内に忘れてきたのだろう。カワイイ恋人ができれば、人々はそれに見合うために自らもカワイくなる努力をするものだ。そんな風に、彼の中でも、才能に見合うだけのカワイイ人格が磨く努力が芽生えば素晴らしい、と、茉莉の話半分に紫陽は考えた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み