06
文字数 3,577文字
「瑠奈 ぁっ!」
おぼつかない走りでこちらにやってきた彼女は告中の細い腕を掴んだ。
手の持ち主は、父と対象的に、髪もろくに梳かないで、部屋着にパーカーを羽織って息を荒げている。
見たことがなくてもわかる。––––告中 の、母だ。
「お母さん!?」
「よ、陽子 ……?」
「はあ、はあ……。良かった。間に合った」
力が抜けたように彼女はその場に膝から崩れ落ちて、告中と同じ背丈くらいになる。その状態で娘を抱きしめる。
全員、その場の状況が掴めないでいるようにみえる。紫陽 も当然、何が起きているのか分かっていない。
ただ、ペンダントが大きく反応していた。
「瑠奈、瑠奈。ごめんなさい。あなたに、しんどい思いばかりさせて……」
告中の細い体を覆う母は、涙を流しながら娘に語りかけている。
「お父さんに会いに行くって聞いて、お母さん、ようやく目が覚めた。瑠奈をそこまで追い詰めてるってこと、分かってなかった。本当に、私にとって1番大事なのはあなたなのに、私は、お母さんは、過去にずっと縋っていて」
母の肩越しに告中の顔を見る。初め固まっていた彼女は、氷が溶けるように、少しずつ優しい表情に変わっていった。
「お母さん。気にしないで。私は、お父さんにもう1度会ってみたかったの。ただ、それだけ。辛くて気分が沈んでいても、部屋に籠もっていても、お母さんは、私の大切なお母さんだから」
告中も自分の母を抱きしめる。
「陽子。水を差すようで悪いが……俺は本当に2人がやっていけるのか不安だ。君は心が弱い」
随分と偉そうなことをいう。これの答えは……「態度」がデカイ、だろうか。
「そんな言い方までしなくても」
父の隣にいる女が言った。この人は相対的に悪い人ではないかもしれない。
「瑠奈が心配なんだよ。また、陽子が体調を崩したらと思うと」
「お父さん、私は大丈夫だから」
「でも、瑠奈」
父がこちらにやってくる。
「うちの大切な娘に近づかないで! あなたにだけは、私と、瑠奈を支えることから逃げたあなたにだけは、弱いなんて言われたくない」
母はかつての告中の父を強く睨んだ。
「瑠奈。あなたを妊娠しているとき、私はとってもしんどかった。産んだ後も、生活が苦しくて、最近は体調が悪くて、何度、この世から居なくなってしまおうかって。でも、諦めなかった。だって、我慢すれば瑠奈に会えたから。ずっと、近くに瑠奈がいたから。私はその限り、絶対に耐えてみせる。……だって、私は、あなたの、1人だけの、お母さん、ですもの」
母の瞳に、カワイイ色を感じとった。
ペンダントが、眩しく、強く、光を放つ。
今の母は、告中を決して他の人に渡そうとしない。父を近づけない。彼に対抗できる、真っ当な大人だった。世界は、告中がカワイくないから反応しないのではなかった。親子2人揃って、カワイくなる瞬間を待ち望んでいた。そうして母が強く、カワイイ大人になったとき、ペンダントは今みたく明るく光り輝いて、それから。
「え、これって」
インスタントカメラを、紫陽達に贈り届けた。
「ペンダント、ようやく光ったの」
大人たち3人は、ポカンとしている。告中が嬉しそうにこちらへやってくる。茉莉 は、「良かったな瑠奈ぢゃ〜ん」と号泣していた。
「これが、紫陽ちゃんの言ってたカワイイもの」
「そうだ。世界が、カワイイを感知したときに、よりカワイイ方向を導くために分け与えてくれる力。どうやら今回は、この楽しカワイイカメラのようだな」
「どうしてインスタントカメラ?」
告中は手にとって、不思議そうに眺めている。カメラの質自体も、告中が今持っているものと変わりなさそうだ。
「私には分からんな。だから」
紫陽は、告中瑠奈と目を合わせた。カワイくなったこいつなら、きっとカワイイことを成し遂げられる。
「告中、お前がそのカメラで1番やりたいことをやってみろ。それが、世界の模範カワイイ解答だ」
◆
観光地や商店街が近いこの駅だからこそ、当然カメラを構える人も多くいる。ただ、何の面白みもない、コンビニ近くの壁の前で撮影をする人は滅多にいない。
そこに、外側だけみれば、親子のような3人が、写真を取ってもらうために、横へ並んでいる。
「別にお父さんとお母さんは近づかなくていいからね。その代わり私が真ん中」
画角の外から3人を眺める若い女性と女子小学生が一人ずつ。そしてカメラを構える女子小学生が一人。紫陽の持ったインスタントカメラに向かって、夫婦のように見える男女は、今までの人生で培った『大人の笑み』を作ってみせている。
この3人が、家族として纏まることは、これからの未来、決してありえない。かつてカメラが現像したような写真に残る、3人の間の暖かい空気は、幸せな思い出は、今写真を撮りなおしても、絶対に再現することはできない。名前も顔も知らない人間が定めた民法とやらに従って、男は女に、生活するための経済的支援をする。それだけでしか、娘を挟む2人の間に関係性は保たれていない。なのに、そのはずなのに。
「ほら、紫陽ちゃん早くしてよ! ボタン分かる!?」
「分かるに決まってるだろ……。たぶん、これだよな。––––はい、チーズ」
2人の間にいる告中瑠奈は、最高にカワイイ顔でレンズに微笑んだ。
「私、こうやって現像を待ってる時間が好き。写真を撮られた瞬間に思いを馳せながら、どんな顔してるんだろーって想像して、でもレンズが写す実際の表情は全然違ってるの」
写真が焼きあがるのを待ちながら告中は嬉しそうに喋った。かつての父と母の関係は全く修復していないのに、告中はどこか重いものを下ろしたような声で話した。
「お父さん!」
新しい家族と帰ろうとする男を、告中は呼び止める。
「今日は、私のために来てくれてありがとう。ただ、本当に、もう1度会ってくれるのかって、確かめて見たかったの。そんなワガママのために、……ごめんなさい。でも、とっても嬉しかった」
彼は振り向いて、「父さんだってこんなんでも瑠奈のお父さんだからなー!」と笑い混じりに言った。告中は背中が見えるまで手を振り続けた。
「告中。もう少しで写真ができそうだ。……ふふっ。やはりいつ見ても楽しカワイイな」
「結構普通の写真っぽくね!? ペンダントが作ったやつだから期待したのに」
「そういうこともあるだろ。井学んときだって普通のウィッグだった」
「その件は特別なウィッグだったらビビるわ」
「私は、普通の写真で良かったな」
そう言って彼女はまだ温かい写真を手に取る。
「写真は過去だって言うけど、私はやっぱりそうは思わない。今日、お父さんに会ったってことは、この写真しか証明してくれない。かつての私がそうやって奮闘したって記録は、絶対未来のためになる。だから、次に進むために、私は、いっぱい写真をとって、記録に残すの」
また彼女らしく大人びたことを言う。しかし、そんな告中のことを母がスマホで撮って、「もう。お母さんやめてよ」と笑う告中はやはり同い年だ。
何となく、そんな気分になったので、紫陽はメッセージアプリを開く。家族グループにある、2ヶ月以上無視したままだったゴールデンウィークの写真を何枚か見て、仕方なしにそれらを保存してやった。
◆
7月19日 (火)
連休が明けて、火曜日の朝。今日からまたカワイくない1週間が始まる。宿題は何とか終わらせた。やっぱり、カワイくないから好きになれないけど、これをこなすのも小学生の仕事だろうと思って終わらせた。
食卓につくといつもの情報番組が流れている。また新人女優が世間を賑わせているらしい。芸能界にプッシュされる彼女も、彼女なりに抱えている責任があるのだろうと、紫陽は素人ながらに思った。主演ドラマの話題を天音達と共有してもいいと思った。
「ごちそうさま」
カワイイ食事を終えて、皿をシンクへ運ぶ。何となく今日は気分がカワイイから、洗い物を全てから部屋に戻った。
着替えて、ペンダントをつける。鏡に映る自分は今日もカワイイ。そうして家を出る。キッチンを見た母が「今日は雷雨かしらん」と呟いていた。
近所のおばさんが連れている犬は相変わらず紫陽にだけ吠える。おばさんに挨拶をして、犬には最高のカワイイスマイルを向けてやった。
そうして教室に着く。今日はいつもより早い。幣原篝火はこの時間から本を読んでいる。あれから特別仲が深まった訳ではなかったが、案外カワイイやつだと紫陽は思うようになった。
「おっはよー紫陽。宿題やったか?」
「やったに決まってるだろ。茉莉は」
「……見せて」
アホか、と茉莉を叩いて席に着く。結局チャイムが鳴るまで茉莉は見せてとつきまとってきた。
教師が入ってきて、退屈な1時間目が始まる。
今日もカワイイ1日すると意気込んで、紫陽はペンダントを握りしめた。
おぼつかない走りでこちらにやってきた彼女は告中の細い腕を掴んだ。
手の持ち主は、父と対象的に、髪もろくに梳かないで、部屋着にパーカーを羽織って息を荒げている。
見たことがなくてもわかる。––––
「お母さん!?」
「よ、
「はあ、はあ……。良かった。間に合った」
力が抜けたように彼女はその場に膝から崩れ落ちて、告中と同じ背丈くらいになる。その状態で娘を抱きしめる。
全員、その場の状況が掴めないでいるようにみえる。
ただ、ペンダントが大きく反応していた。
「瑠奈、瑠奈。ごめんなさい。あなたに、しんどい思いばかりさせて……」
告中の細い体を覆う母は、涙を流しながら娘に語りかけている。
「お父さんに会いに行くって聞いて、お母さん、ようやく目が覚めた。瑠奈をそこまで追い詰めてるってこと、分かってなかった。本当に、私にとって1番大事なのはあなたなのに、私は、お母さんは、過去にずっと縋っていて」
母の肩越しに告中の顔を見る。初め固まっていた彼女は、氷が溶けるように、少しずつ優しい表情に変わっていった。
「お母さん。気にしないで。私は、お父さんにもう1度会ってみたかったの。ただ、それだけ。辛くて気分が沈んでいても、部屋に籠もっていても、お母さんは、私の大切なお母さんだから」
告中も自分の母を抱きしめる。
「陽子。水を差すようで悪いが……俺は本当に2人がやっていけるのか不安だ。君は心が弱い」
随分と偉そうなことをいう。これの答えは……「態度」がデカイ、だろうか。
「そんな言い方までしなくても」
父の隣にいる女が言った。この人は相対的に悪い人ではないかもしれない。
「瑠奈が心配なんだよ。また、陽子が体調を崩したらと思うと」
「お父さん、私は大丈夫だから」
「でも、瑠奈」
父がこちらにやってくる。
「うちの大切な娘に近づかないで! あなたにだけは、私と、瑠奈を支えることから逃げたあなたにだけは、弱いなんて言われたくない」
母はかつての告中の父を強く睨んだ。
「瑠奈。あなたを妊娠しているとき、私はとってもしんどかった。産んだ後も、生活が苦しくて、最近は体調が悪くて、何度、この世から居なくなってしまおうかって。でも、諦めなかった。だって、我慢すれば瑠奈に会えたから。ずっと、近くに瑠奈がいたから。私はその限り、絶対に耐えてみせる。……だって、私は、あなたの、1人だけの、お母さん、ですもの」
母の瞳に、カワイイ色を感じとった。
ペンダントが、眩しく、強く、光を放つ。
今の母は、告中を決して他の人に渡そうとしない。父を近づけない。彼に対抗できる、真っ当な大人だった。世界は、告中がカワイくないから反応しないのではなかった。親子2人揃って、カワイくなる瞬間を待ち望んでいた。そうして母が強く、カワイイ大人になったとき、ペンダントは今みたく明るく光り輝いて、それから。
「え、これって」
インスタントカメラを、紫陽達に贈り届けた。
「ペンダント、ようやく光ったの」
大人たち3人は、ポカンとしている。告中が嬉しそうにこちらへやってくる。
「これが、紫陽ちゃんの言ってたカワイイもの」
「そうだ。世界が、カワイイを感知したときに、よりカワイイ方向を導くために分け与えてくれる力。どうやら今回は、この楽しカワイイカメラのようだな」
「どうしてインスタントカメラ?」
告中は手にとって、不思議そうに眺めている。カメラの質自体も、告中が今持っているものと変わりなさそうだ。
「私には分からんな。だから」
紫陽は、告中瑠奈と目を合わせた。カワイくなったこいつなら、きっとカワイイことを成し遂げられる。
「告中、お前がそのカメラで1番やりたいことをやってみろ。それが、世界の模範カワイイ解答だ」
◆
観光地や商店街が近いこの駅だからこそ、当然カメラを構える人も多くいる。ただ、何の面白みもない、コンビニ近くの壁の前で撮影をする人は滅多にいない。
そこに、外側だけみれば、親子のような3人が、写真を取ってもらうために、横へ並んでいる。
「別にお父さんとお母さんは近づかなくていいからね。その代わり私が真ん中」
画角の外から3人を眺める若い女性と女子小学生が一人ずつ。そしてカメラを構える女子小学生が一人。紫陽の持ったインスタントカメラに向かって、夫婦のように見える男女は、今までの人生で培った『大人の笑み』を作ってみせている。
この3人が、家族として纏まることは、これからの未来、決してありえない。かつてカメラが現像したような写真に残る、3人の間の暖かい空気は、幸せな思い出は、今写真を撮りなおしても、絶対に再現することはできない。名前も顔も知らない人間が定めた民法とやらに従って、男は女に、生活するための経済的支援をする。それだけでしか、娘を挟む2人の間に関係性は保たれていない。なのに、そのはずなのに。
「ほら、紫陽ちゃん早くしてよ! ボタン分かる!?」
「分かるに決まってるだろ……。たぶん、これだよな。––––はい、チーズ」
2人の間にいる告中瑠奈は、最高にカワイイ顔でレンズに微笑んだ。
「私、こうやって現像を待ってる時間が好き。写真を撮られた瞬間に思いを馳せながら、どんな顔してるんだろーって想像して、でもレンズが写す実際の表情は全然違ってるの」
写真が焼きあがるのを待ちながら告中は嬉しそうに喋った。かつての父と母の関係は全く修復していないのに、告中はどこか重いものを下ろしたような声で話した。
「お父さん!」
新しい家族と帰ろうとする男を、告中は呼び止める。
「今日は、私のために来てくれてありがとう。ただ、本当に、もう1度会ってくれるのかって、確かめて見たかったの。そんなワガママのために、……ごめんなさい。でも、とっても嬉しかった」
彼は振り向いて、「父さんだってこんなんでも瑠奈のお父さんだからなー!」と笑い混じりに言った。告中は背中が見えるまで手を振り続けた。
「告中。もう少しで写真ができそうだ。……ふふっ。やはりいつ見ても楽しカワイイな」
「結構普通の写真っぽくね!? ペンダントが作ったやつだから期待したのに」
「そういうこともあるだろ。井学んときだって普通のウィッグだった」
「その件は特別なウィッグだったらビビるわ」
「私は、普通の写真で良かったな」
そう言って彼女はまだ温かい写真を手に取る。
「写真は過去だって言うけど、私はやっぱりそうは思わない。今日、お父さんに会ったってことは、この写真しか証明してくれない。かつての私がそうやって奮闘したって記録は、絶対未来のためになる。だから、次に進むために、私は、いっぱい写真をとって、記録に残すの」
また彼女らしく大人びたことを言う。しかし、そんな告中のことを母がスマホで撮って、「もう。お母さんやめてよ」と笑う告中はやはり同い年だ。
何となく、そんな気分になったので、紫陽はメッセージアプリを開く。家族グループにある、2ヶ月以上無視したままだったゴールデンウィークの写真を何枚か見て、仕方なしにそれらを保存してやった。
◆
7月19日 (火)
連休が明けて、火曜日の朝。今日からまたカワイくない1週間が始まる。宿題は何とか終わらせた。やっぱり、カワイくないから好きになれないけど、これをこなすのも小学生の仕事だろうと思って終わらせた。
食卓につくといつもの情報番組が流れている。また新人女優が世間を賑わせているらしい。芸能界にプッシュされる彼女も、彼女なりに抱えている責任があるのだろうと、紫陽は素人ながらに思った。主演ドラマの話題を天音達と共有してもいいと思った。
「ごちそうさま」
カワイイ食事を終えて、皿をシンクへ運ぶ。何となく今日は気分がカワイイから、洗い物を全てから部屋に戻った。
着替えて、ペンダントをつける。鏡に映る自分は今日もカワイイ。そうして家を出る。キッチンを見た母が「今日は雷雨かしらん」と呟いていた。
近所のおばさんが連れている犬は相変わらず紫陽にだけ吠える。おばさんに挨拶をして、犬には最高のカワイイスマイルを向けてやった。
そうして教室に着く。今日はいつもより早い。幣原篝火はこの時間から本を読んでいる。あれから特別仲が深まった訳ではなかったが、案外カワイイやつだと紫陽は思うようになった。
「おっはよー紫陽。宿題やったか?」
「やったに決まってるだろ。茉莉は」
「……見せて」
アホか、と茉莉を叩いて席に着く。結局チャイムが鳴るまで茉莉は見せてとつきまとってきた。
教師が入ってきて、退屈な1時間目が始まる。
今日もカワイイ1日すると意気込んで、紫陽はペンダントを握りしめた。