04
文字数 3,063文字
ウォールナットアイ、ひいてはクルミ、は、レース中に石を踏んで足を負傷していた。仁川 が見ると軽い傷があったので、消毒をして包帯を巻いた。
「すり傷で良かったな」
「うん。でも悪化するかもしれないし、安心してられない」
処置が終わるとクルミは仁川の元を離れてケージの奥に戻った。歩く様はそこまで重症でないように見える。ウサグラシュー、もといユリは、まだぴょんぴょん飛び跳ねていた。
そんな風にウサギ達を眺めていると、後ろから極めて不愉快な足音、なんだか、大層な言葉遣いで金に物を言わせたソリューションを提示してきそうな足音がした。振り向いたら、想定通りのお嬢様がいた。
「今日は、随分と熱いレースでしたわ。仁川利月 さん」
「やっぱりカガリか。大負けしたのに元気だな」
それは傷ついているに決まってるでしょう、とカガリが言ったのでそれ以上紫陽 は何も言わないようにした。
「まさか、たったの1レースで生涯収支がマイナス2000億になるとは思いもしませんでしたが……。それも一興でしょう。そこで、1つ仁川さんにお話がありまして」
パチン、とカガリが指を鳴らす。フランソワちゃんがいないと思ったら、土から黒服が湧いてきた。手には小さなケージを持っていて、中にウサギが1羽いる。なんとも綺麗な毛ヅヤをしたウサギだった。
「ウォールナットアイは、今日のレースで敗北してしまいました。彼女の無敗伝説もここで終わりです。……人々は、ひどく失望したことでしょう」
仁川が険しい顔をする。カガリは気づいていないのか無視しているのか、そのまま話し続けた。
「新しいスターが必要ですわ。人々は、優秀な人間に感銘を受け、自己を投影し、そして応援するもの。この星花小主催で行っている『わくわく! ウサギちゃんダービー』には、新しい風が求められてますの」
そこで連れてきたのがそのウサギなのだろうか。えらく毛ヅヤのいいウサギは、黒服の手元に糞を落としていた。
「別におれはレースで儲けたい訳じゃねえーよ。クルミが、ユリが、みんなが楽しそうに走るから、それを学校の人らにも見せたいと思っただけ」
「しかし、あなたはレースで得たお金でウサギたちに贅沢をさせたでしょう。もし元の貧乏くさいペレットに戻ったとして、ウサギちゃんたちは我慢できるのかしら?」
「それは……」
仁川は歯を食いしばる。貧乏くさいという表現はカワイくない、と思ったが、実際学校側が用意するものはどれも古臭くて紫陽は好きでなかったから、半分くらいはカガリに同意してしまった。
「そこで彼を活躍させましょう。……このウサギは、アメリカが世界に誇る名ウサギ『ラピット』を父に持ち、母はウサギ界の重鎮ウサップス家が育ててきた名門の血を受け継いでますの。彼ならきっと、また、この『わくわく! ウサギちゃんダービー』を再興させ、ひいては仁川利月のウサギちゃんたちに贅沢させ続けることができますのよ」
「なるほど……。クルミたちのために、ビジネスとしてウサギちゃんダービーを」
このウサギ、すげえいい体格をしているし……、とその良血ウサギを見ながら仁川はいう。たいそう悩んでいる様子である。良血ウサギは黒服の手を噛んでいた。
「いいや、でもやっぱり駄目だ。俺は、自分のためにウサギ達を走らせることはできない。仮に他の子がいいご飯を食べられるとしても、この子はずっと走らされて可哀想だ」
「ウサギちゃんたちがそこの愛宕 紫陽のようなひもじい餌を食べる羽目になりますわよ。よろしくて〜?」
「やかましい。だれがひもじくて惨めで汚らしいだ」
「そこまで言ってませんわ!?」
「愛宕……俺はどうしたら」
紫陽はカガリの意見に同意するつもりはない。大前提としてカガリの意見に屈するのがカワイくないのだが。まあ、そういったプライドとは別で、紫陽は新しいウサギを導入するという行為それ自体にも否定的である。それは、私利私欲のためにウサギを走らせたくないとか、贅沢な餌を食わすには別の術があるとか、今はクルミの怪我を治すのが第1だとかそれ以前に、もっともっと大切なことを思い出したからである。
公営ギャンブル以外での賭け事、またそれに乗っかったノミ行為は、法に反していた。
そんなことをふと思い出した。カワイイのボーダーラインを設けるまえに、司法の裁く対象となるところであった。『わくわく! ウサギちゃんダービー』は、始めから即刻中止されるべきものだったのだ。
「仁川。このウサギを貰っておくのは辞めよう。貴様の言う通り、人間の欲のため彼が走らされるのは可哀想だ。それに……あんまり贅沢しすぎると、ブクブクと太ってしまって、ウサギの健康によくないらしいぞ。だから、餌のグレードダウンもそこまで気にする必要はない」
後半はよく知らないので適当なことを言った。我ながらカワイイでっちあげだと紫陽は思った。
「わかった、愛宕。……カガリ、だっけか。そういうことだから、すまない。今回の取引はなしだ。俺は、クルミ達とまた、平和なウサギライフを送るよ」
「愛宕紫陽……またワタクシの邪魔を……!」
「邪魔されたくなかったら私の居ないときに来ればいいだろ」
「そ、それはまたお話が違うでしょうが!」
カガリはあまり引く気がないようだった。紫陽も何となくそんな気がしていた。彼女は無理矢理追い払うまで粘るしつこい女である。
そこで勝負を提案してみた。
「カガリ。貴様の言い分もよく分かる。だから、勝負しないか?」
「勝負?」
「そうだ。題して、ウサギにらめっこ」
紫陽はケージからウサギを1羽連れてこようとする。紫陽が近づくと皆逃げるので、仁川に人懐っこい子を1羽抱きかかえてもらった。
「こいつと貴様でにらめっこして、先に笑った方が負けだ」
「ウサギが笑いますの?」
「細かいことは気にするな」
「えぇ……」
そうしてウサギとカガリはにらみあった。審判として間に紫陽がつく。
「ではいくぞ! にーらめっこしましょ、あっぷっぷーぅ!」
「……」
「……」
「ぶふっ」
カガリがあまりにカワイくない顔をするので先に紫陽が笑った。
ウサギと変顔カガリは睨み合っている。10秒くらいすると、カガリの顔色が悪くなっていくのがわかった。
「ちょ、ちょっと……」
「……」
ウサギはずっとカガリを見つめている。
「この子、なんてつぶらな瞳を……」
「……」
「そんなに見つめないでください。ずっとつぶらな瞳で見つめられたら」
「……」
「あぁ、もう」
「……」
「愛おしい! 愛おしすぎますわ!! 我慢できません!!」
カガリはその場に倒れ込んだ。ウサギの愛らしい表情が持つカワイイは、カガリに耐えがたい量だったらしい。
「カガリの負けだ。笑ってないが、その場に倒れた」
「ああ……ふわふわの羽毛……触りたくなる口……」
「大丈夫ですかお嬢様」
「すみません、気分が」
黒服は糞を浴びて噛みつかれた手をカガリに差し伸ばす。
「はあ、はあ、今日のところはこれくらいにしておきますわ。……覚えておきなさい。猫かぶりならぬ、ウサギかぶり女」
フラフラしながらカガリは去っていく。
「おい、待てよ」
ウサギを抱っこしたままの仁川が、突然カガリと黒服を呼びかけた。
「カガリ、お前、ウサギが駄目って、その子のことは育てられんのか?」
「それは……」
カガリが上目遣いで黒服を見る。
「ご安心ください。仁川利月様。この良血ウサギは、獣医師の免許をもつ私めが、精一杯の愛情を込めて育てます」
動物臭い黒服が、真剣な顔でそう答えた。ケージの中のウサギもお辞儀していた。
「すり傷で良かったな」
「うん。でも悪化するかもしれないし、安心してられない」
処置が終わるとクルミは仁川の元を離れてケージの奥に戻った。歩く様はそこまで重症でないように見える。ウサグラシュー、もといユリは、まだぴょんぴょん飛び跳ねていた。
そんな風にウサギ達を眺めていると、後ろから極めて不愉快な足音、なんだか、大層な言葉遣いで金に物を言わせたソリューションを提示してきそうな足音がした。振り向いたら、想定通りのお嬢様がいた。
「今日は、随分と熱いレースでしたわ。仁川
「やっぱりカガリか。大負けしたのに元気だな」
それは傷ついているに決まってるでしょう、とカガリが言ったのでそれ以上
「まさか、たったの1レースで生涯収支がマイナス2000億になるとは思いもしませんでしたが……。それも一興でしょう。そこで、1つ仁川さんにお話がありまして」
パチン、とカガリが指を鳴らす。フランソワちゃんがいないと思ったら、土から黒服が湧いてきた。手には小さなケージを持っていて、中にウサギが1羽いる。なんとも綺麗な毛ヅヤをしたウサギだった。
「ウォールナットアイは、今日のレースで敗北してしまいました。彼女の無敗伝説もここで終わりです。……人々は、ひどく失望したことでしょう」
仁川が険しい顔をする。カガリは気づいていないのか無視しているのか、そのまま話し続けた。
「新しいスターが必要ですわ。人々は、優秀な人間に感銘を受け、自己を投影し、そして応援するもの。この星花小主催で行っている『わくわく! ウサギちゃんダービー』には、新しい風が求められてますの」
そこで連れてきたのがそのウサギなのだろうか。えらく毛ヅヤのいいウサギは、黒服の手元に糞を落としていた。
「別におれはレースで儲けたい訳じゃねえーよ。クルミが、ユリが、みんなが楽しそうに走るから、それを学校の人らにも見せたいと思っただけ」
「しかし、あなたはレースで得たお金でウサギたちに贅沢をさせたでしょう。もし元の貧乏くさいペレットに戻ったとして、ウサギちゃんたちは我慢できるのかしら?」
「それは……」
仁川は歯を食いしばる。貧乏くさいという表現はカワイくない、と思ったが、実際学校側が用意するものはどれも古臭くて紫陽は好きでなかったから、半分くらいはカガリに同意してしまった。
「そこで彼を活躍させましょう。……このウサギは、アメリカが世界に誇る名ウサギ『ラピット』を父に持ち、母はウサギ界の重鎮ウサップス家が育ててきた名門の血を受け継いでますの。彼ならきっと、また、この『わくわく! ウサギちゃんダービー』を再興させ、ひいては仁川利月のウサギちゃんたちに贅沢させ続けることができますのよ」
「なるほど……。クルミたちのために、ビジネスとしてウサギちゃんダービーを」
このウサギ、すげえいい体格をしているし……、とその良血ウサギを見ながら仁川はいう。たいそう悩んでいる様子である。良血ウサギは黒服の手を噛んでいた。
「いいや、でもやっぱり駄目だ。俺は、自分のためにウサギ達を走らせることはできない。仮に他の子がいいご飯を食べられるとしても、この子はずっと走らされて可哀想だ」
「ウサギちゃんたちがそこの
「やかましい。だれがひもじくて惨めで汚らしいだ」
「そこまで言ってませんわ!?」
「愛宕……俺はどうしたら」
紫陽はカガリの意見に同意するつもりはない。大前提としてカガリの意見に屈するのがカワイくないのだが。まあ、そういったプライドとは別で、紫陽は新しいウサギを導入するという行為それ自体にも否定的である。それは、私利私欲のためにウサギを走らせたくないとか、贅沢な餌を食わすには別の術があるとか、今はクルミの怪我を治すのが第1だとかそれ以前に、もっともっと大切なことを思い出したからである。
公営ギャンブル以外での賭け事、またそれに乗っかったノミ行為は、法に反していた。
そんなことをふと思い出した。カワイイのボーダーラインを設けるまえに、司法の裁く対象となるところであった。『わくわく! ウサギちゃんダービー』は、始めから即刻中止されるべきものだったのだ。
「仁川。このウサギを貰っておくのは辞めよう。貴様の言う通り、人間の欲のため彼が走らされるのは可哀想だ。それに……あんまり贅沢しすぎると、ブクブクと太ってしまって、ウサギの健康によくないらしいぞ。だから、餌のグレードダウンもそこまで気にする必要はない」
後半はよく知らないので適当なことを言った。我ながらカワイイでっちあげだと紫陽は思った。
「わかった、愛宕。……カガリ、だっけか。そういうことだから、すまない。今回の取引はなしだ。俺は、クルミ達とまた、平和なウサギライフを送るよ」
「愛宕紫陽……またワタクシの邪魔を……!」
「邪魔されたくなかったら私の居ないときに来ればいいだろ」
「そ、それはまたお話が違うでしょうが!」
カガリはあまり引く気がないようだった。紫陽も何となくそんな気がしていた。彼女は無理矢理追い払うまで粘るしつこい女である。
そこで勝負を提案してみた。
「カガリ。貴様の言い分もよく分かる。だから、勝負しないか?」
「勝負?」
「そうだ。題して、ウサギにらめっこ」
紫陽はケージからウサギを1羽連れてこようとする。紫陽が近づくと皆逃げるので、仁川に人懐っこい子を1羽抱きかかえてもらった。
「こいつと貴様でにらめっこして、先に笑った方が負けだ」
「ウサギが笑いますの?」
「細かいことは気にするな」
「えぇ……」
そうしてウサギとカガリはにらみあった。審判として間に紫陽がつく。
「ではいくぞ! にーらめっこしましょ、あっぷっぷーぅ!」
「……」
「……」
「ぶふっ」
カガリがあまりにカワイくない顔をするので先に紫陽が笑った。
ウサギと変顔カガリは睨み合っている。10秒くらいすると、カガリの顔色が悪くなっていくのがわかった。
「ちょ、ちょっと……」
「……」
ウサギはずっとカガリを見つめている。
「この子、なんてつぶらな瞳を……」
「……」
「そんなに見つめないでください。ずっとつぶらな瞳で見つめられたら」
「……」
「あぁ、もう」
「……」
「愛おしい! 愛おしすぎますわ!! 我慢できません!!」
カガリはその場に倒れ込んだ。ウサギの愛らしい表情が持つカワイイは、カガリに耐えがたい量だったらしい。
「カガリの負けだ。笑ってないが、その場に倒れた」
「ああ……ふわふわの羽毛……触りたくなる口……」
「大丈夫ですかお嬢様」
「すみません、気分が」
黒服は糞を浴びて噛みつかれた手をカガリに差し伸ばす。
「はあ、はあ、今日のところはこれくらいにしておきますわ。……覚えておきなさい。猫かぶりならぬ、ウサギかぶり女」
フラフラしながらカガリは去っていく。
「おい、待てよ」
ウサギを抱っこしたままの仁川が、突然カガリと黒服を呼びかけた。
「カガリ、お前、ウサギが駄目って、その子のことは育てられんのか?」
「それは……」
カガリが上目遣いで黒服を見る。
「ご安心ください。仁川利月様。この良血ウサギは、獣医師の免許をもつ私めが、精一杯の愛情を込めて育てます」
動物臭い黒服が、真剣な顔でそう答えた。ケージの中のウサギもお辞儀していた。