03
文字数 3,563文字
5月11日 (木)
奇跡が起きた。
茉莉 ちゃん人形は6時間目まで一度もバレることなく授業を乗り切った。途中、理科の先生が「幽谷 さんずっと目を開けっぱなしでドライアイになりませんか」と言ったときはヒヤリとした。しかし、セリフ8番 (哀)『やばい泣きそ〜』と言わせることでことなきを得た。
6時間目は担任、教野 の算数である。
これは消化試合であった。教野はいつも日付と出席番号をリンクさせて生徒を当てるという、極めて凡人的なアイデアに基づいて授業を進行する。今日は5月11日。茉莉の出席番号は38。紫陽 がどう計算しても茉莉が当たる数字になる予感はしなかった。
「では今日は5月11日なので……、5足す11掛ける3で38……幽谷さん」
紫陽は大いに戦慄した。その3はどこから出てきたと、小一時間問い詰めたい気分になった。慌ててカバンから『茉莉ちゃんスイッチ』を取り出す。
えっと、当てられたときは……。
『はい! 幽谷茉莉です! 私の元気で、みんなの影を照らしちゃうぞー!』
「……?」
教室が変な空気に包まれる。きっと算数が極めて退屈な教科だからに違いないと紫陽は思った。
「えーっと、では、幽谷さん。この問題なんですけど」
2番と3番にそれぞれ (挨拶A)・(挨拶B)とラベルがされている。返事に使えそうなのはこれくらいしかない。さっきの活発な挨拶は2番。今度は3を押してみる。
『はぁい、なに? だるぅ。今の私に触れると……火傷すっぞ?』
「幽谷さん……?」
場が凍りつく。本当に火傷するくらいの熱を放っていてこの空気を溶かしてくれれば助かったのだが。
このままでは茉莉の名誉に関わる。紫陽は謝るとき用と教えられた5番を押した。
『ごめん。すみません。申し訳ない。罪を償うため、今ここで切腹します……』
「幽谷さん!?」
教野は慌てふためいた。自分が忠告したせいで生徒が切腹するとなれば一大事である。生徒達もざわつきはじめる。この空気を自分が間接的に作ってしまったことに紫陽は恐れ戦いた。
何とか教野へ謝意を示したい。しかし謝罪用のボタンは5番しか用意されていないのである。茉莉はこの間に、もう6回も切腹を宣言している。
「くそ、どうにかならないのか」
紫陽はボタンを連打してみる。すると茉莉ちゃん人形が『ごめ、ごめ、』と言い続けていることに気づいた。
––––セリフ中にボタンを押せば、再生中のセリフは上書きされる。
「なるほど……」
これはいいことを発見した。紫陽は5番のボタンを押し、少しまってから喜や楽のボタンを押してみる。
『ごめん。よっしゃーあああああ! ごめん。ハイ! ハイ! ハイ! ハイ! みんなせーの! ごめん。す、やばい泣きそ〜』
喜や楽のボタンがあまりにハイテンションなので違和感は拭えないが、切腹を宣言するよりはマシだろう。茉莉ちゃん人形は適当なインターバルで『ごめん』を言い続けている。
教野は呆れていた。黙ったまま、黒板の問題を指す。
「幽谷さん、黒板を見てください」
『瀬戸内海。夏目そ』
「やべ間違えた」
『はい! 幽谷茉莉です! 私の元気で、みんなの影を照らしちゃうぞー!」
「……。 (3)、分かりましたか? 仮分数の計算ですね」
紫陽は黒板をみた。この問題の答えは瀬戸内海でも夏目漱石でも弟でもはらびれでもない。
通分すらない、極めて簡単な計算。
答えは『4』だ。
『死ね!』
「……しまった!」
計算結果を、意図せずボタン上にアウトプットしてしまう。
前に立っている教野の顔が歪み始めた。
2組に、鼓膜が破れるほどの怒号が鳴り響いた。紫陽は、自分が怒られている気になって全身が震えた。そのたびに指がボタンに触れて、茉莉ちゃん人形は『ハイ! ハイ! ハイ! ハイ! みんなせーの!』『よっしゃーあああああ!』『瀬戸内海。夏目漱石。弟。はらびれ』など陽気な声をあげて、都度、茉莉だけ宿題の数が倍になった。
「幽谷さん。どうして急にこんな風になってしまったのですか? さっきからずっと前をみて笑ったままだし。……先生、強く叱っちゃったけど、心配になってきました。みんなの時間を奪ったことを、ここで謝ってください。そしたら、先生、許してあげます」
紫陽は茉莉に対して非常に申し訳ない気持ちになってきた。自分がボタンの操作を上手く扱えれば教室の空気が凍りつく程度で済んだかもしれないと思った。この危機的状況を打開するような術 が残されていないか、真剣に考えた。
「……ん、待て」
茉莉本人から茉莉ちゃん人形を貰ったときの会話を思い出す。
––––。
『……ちなみに、このセリフ集には一個とっておきのがあって』
『何番だ。聞いてみたい』
『おーっとそれはシークレットだ。紫陽にも、その時がきたら雰囲気ごと味わってほしいから』
『そうか』
『一応ヒントだけ言っておくと、素数のどれか! きっとそれを聴くと、紫陽も私に惚れ直すことになるぞ〜』
『惚れたことないが』
『うわあ楽しみだなあ、みんなの反応とかもぜひ聴かせて!』
「……」
思い出した。このボタンの中には、とっておきのセリフがあると、そう言っていたのだ。教野と茉莉ちゃん人形は2人沈黙の世界で見つめ合っている。いや、実際のところ茉莉ちゃん人形側は目を逸らしているのだが。細かいことはさておき、とっておきのセリフを言わせるなら今しかないし、切腹を宣言するより、そのとっておきがこの状況を解決する可能性に賭けたほうがいいと思った。
「素数……か」
ボタン一覧を眺める。使ったセリフの中にとっておきのものはなさそうだから、使っていないボタンの中にとっておきがあるように思われる。
残っているボタンは『1 (ヒ・ミ・ツ)』と『7 (怒)』。どちらかがとっておきのはずだが。
「んー」
素数とはなんだったかドわすれしてしまった。頑張って過去の記憶を探ってみる。そういえば、いつだったかの教科書のコラムで、素数という文字と1という数字が並んでいた気がする。理由は分からないけど、並んでいることには素数に違いないと思った。なにより、『7』のボタンはラベルが怒なのに対して、『1』はヒ・ミ・ツなのだ。絶対にこれがとっておきに違いない。紫陽は確信した。
「……ずっと黙ったままですか。幽谷さん」
今だ。ゆっくり、優しく、カワイく、『1』のボタンを押す。
『秘密を暴露しまーす! 我が5年2組の担任、教野ちゃんは、三十路なのにまだ独身で、元カレに固執してる!!』
「––––––––ッ!?」
茉莉の宿題はさらに30倍になった。
◆
「どうだった? 私のとっておき!」
今日は随分と疲れた。お風呂あがりの体でベットに体を委 ねて、スピーカーから茉莉の声を聞き取る。
「最悪だった。先生は半分泣いていたぞ」
「ええ!? なんで!?」
「先生を傷つけるようなこと言ったからだろ」
「火傷するぜ……ってそんなに怖い言葉だったかなあ……?」
思わず紫陽は起き上がった。とっておきのボタンは『3』だったらしい。
「私のイケボすごくなかった? クラスの女の子みんな私のこと考えてるよ今」
「そ、そうか……」
「私、声優なれるかも!」
そこで紫陽は冷静になった。『3』のセリフはとっておきというにはあまりに退屈でつまらなかったし、茉莉の舞い上がり方も至極愚かだったからだ。
「すまん。『3』のセリフのことなら、教室は凍りついてた」
「嘘だろぉ!?」
何がダメだったんだろ……、最初のダルい感じか? と茉莉は声色を切り替えながら1人声あての反省をしている。
もっと振り返るべきことがある。
「ところで、別府とやらの幽霊の件はどうなった」
「いろんなとこ行ったよ〜。行きつけの居酒屋とか、元職場とか、家族のところとか……。信じてもらうのと通訳は大変だったけど、別府さん満足そうで良かったぁ」
「上手くいってそうだな。……成仏はできたのか?」
「1つだけ、とても大切な人に会えてないんだって。行こうって言ったけど、明日来てくれるはずだから問題ないって。だからまだ成仏はしてない」
「なるほどな。てことは茉莉はまたあしたも山に?」
「いやいや行かない! 2日連続学校休む訳にはいかないし。……ていうかさあ」
スピーカーの向こうから、紙をめくる音がする。
「今日宿題多くね? 漢ド、240ページってどういうこと?」
漢ドとは、漢字ドリルの略である。
「明日も平日なのに出過ぎじゃない? てか多くても2ページだよね。ゴールデンウィークもそうだった。3ケタとかありえるの? 新品のノート買うところから始まるんだけど」
申し訳ない気持ちに紫陽は包まれる。みんなの影を照らせるほどの元気も、240ページ漢字ドリルをすれば消えてしまうだろう。切腹をすれば許されるのだろうかなんてことを紫陽は思った。
奇跡が起きた。
6時間目は担任、
これは消化試合であった。教野はいつも日付と出席番号をリンクさせて生徒を当てるという、極めて凡人的なアイデアに基づいて授業を進行する。今日は5月11日。茉莉の出席番号は38。
「では今日は5月11日なので……、5足す11掛ける3で38……幽谷さん」
紫陽は大いに戦慄した。その3はどこから出てきたと、小一時間問い詰めたい気分になった。慌ててカバンから『茉莉ちゃんスイッチ』を取り出す。
えっと、当てられたときは……。
『はい! 幽谷茉莉です! 私の元気で、みんなの影を照らしちゃうぞー!』
「……?」
教室が変な空気に包まれる。きっと算数が極めて退屈な教科だからに違いないと紫陽は思った。
「えーっと、では、幽谷さん。この問題なんですけど」
2番と3番にそれぞれ (挨拶A)・(挨拶B)とラベルがされている。返事に使えそうなのはこれくらいしかない。さっきの活発な挨拶は2番。今度は3を押してみる。
『はぁい、なに? だるぅ。今の私に触れると……火傷すっぞ?』
「幽谷さん……?」
場が凍りつく。本当に火傷するくらいの熱を放っていてこの空気を溶かしてくれれば助かったのだが。
このままでは茉莉の名誉に関わる。紫陽は謝るとき用と教えられた5番を押した。
『ごめん。すみません。申し訳ない。罪を償うため、今ここで切腹します……』
「幽谷さん!?」
教野は慌てふためいた。自分が忠告したせいで生徒が切腹するとなれば一大事である。生徒達もざわつきはじめる。この空気を自分が間接的に作ってしまったことに紫陽は恐れ戦いた。
何とか教野へ謝意を示したい。しかし謝罪用のボタンは5番しか用意されていないのである。茉莉はこの間に、もう6回も切腹を宣言している。
「くそ、どうにかならないのか」
紫陽はボタンを連打してみる。すると茉莉ちゃん人形が『ごめ、ごめ、』と言い続けていることに気づいた。
––––セリフ中にボタンを押せば、再生中のセリフは上書きされる。
「なるほど……」
これはいいことを発見した。紫陽は5番のボタンを押し、少しまってから喜や楽のボタンを押してみる。
『ごめん。よっしゃーあああああ! ごめん。ハイ! ハイ! ハイ! ハイ! みんなせーの! ごめん。す、やばい泣きそ〜』
喜や楽のボタンがあまりにハイテンションなので違和感は拭えないが、切腹を宣言するよりはマシだろう。茉莉ちゃん人形は適当なインターバルで『ごめん』を言い続けている。
教野は呆れていた。黙ったまま、黒板の問題を指す。
「幽谷さん、黒板を見てください」
『瀬戸内海。夏目そ』
「やべ間違えた」
『はい! 幽谷茉莉です! 私の元気で、みんなの影を照らしちゃうぞー!」
「……。 (3)、分かりましたか? 仮分数の計算ですね」
紫陽は黒板をみた。この問題の答えは瀬戸内海でも夏目漱石でも弟でもはらびれでもない。
通分すらない、極めて簡単な計算。
答えは『4』だ。
『死ね!』
「……しまった!」
計算結果を、意図せずボタン上にアウトプットしてしまう。
前に立っている教野の顔が歪み始めた。
2組に、鼓膜が破れるほどの怒号が鳴り響いた。紫陽は、自分が怒られている気になって全身が震えた。そのたびに指がボタンに触れて、茉莉ちゃん人形は『ハイ! ハイ! ハイ! ハイ! みんなせーの!』『よっしゃーあああああ!』『瀬戸内海。夏目漱石。弟。はらびれ』など陽気な声をあげて、都度、茉莉だけ宿題の数が倍になった。
「幽谷さん。どうして急にこんな風になってしまったのですか? さっきからずっと前をみて笑ったままだし。……先生、強く叱っちゃったけど、心配になってきました。みんなの時間を奪ったことを、ここで謝ってください。そしたら、先生、許してあげます」
紫陽は茉莉に対して非常に申し訳ない気持ちになってきた。自分がボタンの操作を上手く扱えれば教室の空気が凍りつく程度で済んだかもしれないと思った。この危機的状況を打開するような
「……ん、待て」
茉莉本人から茉莉ちゃん人形を貰ったときの会話を思い出す。
––––。
『……ちなみに、このセリフ集には一個とっておきのがあって』
『何番だ。聞いてみたい』
『おーっとそれはシークレットだ。紫陽にも、その時がきたら雰囲気ごと味わってほしいから』
『そうか』
『一応ヒントだけ言っておくと、素数のどれか! きっとそれを聴くと、紫陽も私に惚れ直すことになるぞ〜』
『惚れたことないが』
『うわあ楽しみだなあ、みんなの反応とかもぜひ聴かせて!』
「……」
思い出した。このボタンの中には、とっておきのセリフがあると、そう言っていたのだ。教野と茉莉ちゃん人形は2人沈黙の世界で見つめ合っている。いや、実際のところ茉莉ちゃん人形側は目を逸らしているのだが。細かいことはさておき、とっておきのセリフを言わせるなら今しかないし、切腹を宣言するより、そのとっておきがこの状況を解決する可能性に賭けたほうがいいと思った。
「素数……か」
ボタン一覧を眺める。使ったセリフの中にとっておきのものはなさそうだから、使っていないボタンの中にとっておきがあるように思われる。
残っているボタンは『1 (ヒ・ミ・ツ)』と『7 (怒)』。どちらかがとっておきのはずだが。
「んー」
素数とはなんだったかドわすれしてしまった。頑張って過去の記憶を探ってみる。そういえば、いつだったかの教科書のコラムで、素数という文字と1という数字が並んでいた気がする。理由は分からないけど、並んでいることには素数に違いないと思った。なにより、『7』のボタンはラベルが怒なのに対して、『1』はヒ・ミ・ツなのだ。絶対にこれがとっておきに違いない。紫陽は確信した。
「……ずっと黙ったままですか。幽谷さん」
今だ。ゆっくり、優しく、カワイく、『1』のボタンを押す。
『秘密を暴露しまーす! 我が5年2組の担任、教野ちゃんは、三十路なのにまだ独身で、元カレに固執してる!!』
「––––––––ッ!?」
茉莉の宿題はさらに30倍になった。
◆
「どうだった? 私のとっておき!」
今日は随分と疲れた。お風呂あがりの体でベットに体を
「最悪だった。先生は半分泣いていたぞ」
「ええ!? なんで!?」
「先生を傷つけるようなこと言ったからだろ」
「火傷するぜ……ってそんなに怖い言葉だったかなあ……?」
思わず紫陽は起き上がった。とっておきのボタンは『3』だったらしい。
「私のイケボすごくなかった? クラスの女の子みんな私のこと考えてるよ今」
「そ、そうか……」
「私、声優なれるかも!」
そこで紫陽は冷静になった。『3』のセリフはとっておきというにはあまりに退屈でつまらなかったし、茉莉の舞い上がり方も至極愚かだったからだ。
「すまん。『3』のセリフのことなら、教室は凍りついてた」
「嘘だろぉ!?」
何がダメだったんだろ……、最初のダルい感じか? と茉莉は声色を切り替えながら1人声あての反省をしている。
もっと振り返るべきことがある。
「ところで、別府とやらの幽霊の件はどうなった」
「いろんなとこ行ったよ〜。行きつけの居酒屋とか、元職場とか、家族のところとか……。信じてもらうのと通訳は大変だったけど、別府さん満足そうで良かったぁ」
「上手くいってそうだな。……成仏はできたのか?」
「1つだけ、とても大切な人に会えてないんだって。行こうって言ったけど、明日来てくれるはずだから問題ないって。だからまだ成仏はしてない」
「なるほどな。てことは茉莉はまたあしたも山に?」
「いやいや行かない! 2日連続学校休む訳にはいかないし。……ていうかさあ」
スピーカーの向こうから、紙をめくる音がする。
「今日宿題多くね? 漢ド、240ページってどういうこと?」
漢ドとは、漢字ドリルの略である。
「明日も平日なのに出過ぎじゃない? てか多くても2ページだよね。ゴールデンウィークもそうだった。3ケタとかありえるの? 新品のノート買うところから始まるんだけど」
申し訳ない気持ちに紫陽は包まれる。みんなの影を照らせるほどの元気も、240ページ漢字ドリルをすれば消えてしまうだろう。切腹をすれば許されるのだろうかなんてことを紫陽は思った。