05

文字数 4,550文字

「にしても、あいつはいつもカワイくない手段ばかり提示しやがる……!」

 紫陽(しはる)は憤怒した。そしてその勢いのままカタラーナを頬ぼった。

「ほう、これはカワイイな」

 カタラーナは当然井学(いがく)の奢りだ。ペンダントが軽く揺れる。

「僕は、あのカガリって子に賛成だな。もし融資してくれる人がいるなら、それに越したことはない。僕はその期待に見合うだけの成果を……生み出す自信がある」
「空いた穴を埋め合わせるだけの解決策だ。どこにもカワイイ要素がない。これを期に、お姉さんや教授の気持ちに触れてみたらどうだ。どうせ、マウスとしか戯れてこなかったのだろう」
「だから今姉さんの心配をしているじゃないか」
「義務みたいな言い方だ。それも融資を受けたら辞めるのだろう」

 井学はブラックコーヒーを眺めている。紫陽はそんなカワイくない飲み物よりメロンソーダの方が好きだ。

「もしカガリから融資を受けられなかったら、貴様はどうするつもりなんだ?」

 アイスの上からストローを刺し直して、バニラごとソーダを吸う。喉が最高にカワイくなる。

「悩んだ……けど、そのときはやっぱり姉さんの看病をするよ。僕は才能があると思ってたけど、教授は学会を前にして厳しくなったし……いつまでも子供扱いする家族は苦手だったけど、それでも育ててくれたしね。最悪、企業で働いて、得た金や環境で、下の世代の優秀な人間をサポートしてもいいかもしれない」
「ふむ」

 全能感に支配されているような彼でも、身内にトラブルがあり、上から叱られれば、自ら他人の支えになることを進んで申し出る。根は人間くさいやつで、ギャップを感じる。萌える。そこそこ、カワイイと紫陽は思った。

 ペンダントが大きく揺れて、光り始める。

「いいじゃないか。ギャップ萌え。……カワイイぞ」
「え、それより愛宕(あたご)さん。光ってるけど」
「ああ、貴様がカワイイからだ」

 彼は口を開けてポカンとしている。正直その顔はあまりカワイくない。そうするうちに、2人の座った机を紫色の光が包み込んだ。

 脳内がカワイさで支配される。周囲の天地万物が愛しくなる。彼の中の(わず)かなカワイさが蓄積して、それらが共鳴して、世界をよりカワイくするためにペンダントが新しい未来を導いてくれる。

 眩しさに目を閉じて、次に景色を見たときには、机の上に1つ、長髪のウィッグとゴスロリのドレスが置かれていた。

「なるほど。……世のカワイイエントロピーはそっちに動いたか」
「マジで何これ」

 ウィッグとドレスを持って、紫陽はそれを井学に突き出した。

「井学、いいからこれを身にまとってみろ」
「何故だ? 僕には女装の趣味はない」
「あっても逆に困る。……このウィッグとドレスは、貴様がカワイくなって世界の流れをより良くするために不可欠なものなんだ」
「女性っぽくなることがカワイイの1歩なんて今どき古い気がするなあ」

 紫陽は井学の最後の言葉には返事しなかった。正論だったからである。

「よし、今から貴様の研究室とやらにいくぞ!」
「え、この格好で!?」
「いいから着いてこい! カワイくなる準備はできた!」

 でもまだコーヒーが熱いと井学は言い訳をするので、紫陽はメロンソーダ上部のアイスクリームをそこに突っ込んだ。ウィッグを付け、ドレスに身にまとった彼は「ブラックコーヒーがコンタミした」と文句を言いつつ、温くて甘いコーヒーを飲み干してカフェを出た。

     ◆

「やけに視線を感じるな……」

 揺れの激しい市バスの中で彼は落ち着かない様子だった。身だしなみを整えていない成人男性が派手な長髪をしてドレスを身にまとい、JSを連れているのだから当たり前である。別に女装くらいしても良かろう、と紫陽は思った。自分を連れて歩いていることに関して、今回ばかりは世間に目を瞑って欲しいとも思った。

「あら、南斗(みなと)?」

 バスに乗り込んできた知らない女性が井学を見て言った。「母さん……?」と彼が呟く。

 親子は最悪の形で久しぶりの対面をした。

「母さん、どうして急に」
「あなたが滅多に帰ってこないから」
「僕は忙しいと言っているだろう。それに……」

 彼は周りを見渡して口を噤んだ。これだけの視線を感じている中で、井学マシンガンを放てないようだった。

「ああ、何てこと。私たちがちゃんと愛を注げないから、あなたはこんな風に歪んでしまったのね……」

 雑な女装をする息子を見て母は大いに悲観した。息子はこれほど優秀であるのに、それを産んだ母がステレオタイプな価値観に未だ囚われているのに紫陽は驚いた。

     ◆

「母さんに変な誤解をさせた。最悪だ」

 バスを降りてから彼はまた落ち込んだ。その間も周囲の目を気にしている。

「女装くらいしたっていいだろうに。趣味は自由だろ」
「多分それを分かった上で、みんな僕の変な見た目に気をとられるんだと思うよ」
「そうか。……なるほど、世界は賢いな」

 紫陽はペンダント握りしめる。

「井学、1ついいか」
「なんだい愛宕さん」

 2人は門の前で足を止める。名門と言われる慶都大学のキャンパスは、コンクリートの建物が1つ建っているだけで、案外殺風景であった。

「周りと違うことをすれば、世間はそれに関心を寄せる、当たり前だな」

 そんなこと、言われなくても、とゴスロリロングヘアの彼が言う。

「今日は分かりやすい見た目をしているから視線という形で関心を集めていることを実感できた。しかし貴様が注目されているのは今だけではない。並外れた実績を持ち、常に結果を出し続ける貴様を、周りは声に出さなくとも注目しているはずなんだ。……そんな貴様が過度な思想を撒き散らせば、大衆はきっと傷つくし、落胆する。周りに見られているという自覚を持つんだ。貴様のカワイくない点はそこだけだ」

 彼はしばらくポカンとしていたが、やがて自分を嘲笑うように「ははっ」と言ってから言葉を紡ぎはじめた。

「ありがとう。愛宕さん。褒めてくれているのかな? だけど僕はもう君が思うような能力なんてない。だって、教授には学会に行くメンバーから外された訳だからね。もしかしたら君のいう通り不愉快な振る舞いを続けたからかもしれないけれど、どちらにせよ、僕がこれ以上実績を積む可能性は排除された訳だ」

 随分と哀れな顔をしている。学会に行けなかったのがよほどショックだったのだろう。

 しかし、そんなカワイくないトラウマは、紫陽にとって想定済みだった。

 鞄からボイスレコーダーを取り出して、それの再生ボタンを押す。どれが再生ボタンか分からなくて、あやうくデータを上書きするところだった。

「井学、これを聞け」

     ◆

 ––––話は、数日前に遡る。

『紫陽! まだ起きてるか!』

 夜、どういう枕で寝るのがカワイイか思慮していたら、茉莉(まつり)から連絡が来た。大抵まともな話を振ってくることはないが、かといって紫陽も普段ずっと暇なので無視する理由は全くない。

『どした? またよからぬことを思いついたか』
『ちげーよ! この前の頼みごとの話!』

 紫陽はすっかり忘れていた。至ってまともな内容であった。井学とコンタクトを取ったその日、紫陽は『すまん。頼み事』と言って茉莉にお願いをしていたのだ。

 幽谷(ゆうこく)茉莉にしか、できないようなこと。

『教授室忍び込んで来たぞ! 井学ちゃんを幽体になってストーカーしたから、どの研究室か特定余裕だった』
『さすが。我が使いの茉莉だ』
『使いじゃねーよバーカ!』

 井学の研究室を持つ教授が、なぜ天才である彼を学会に連れて行かなかったのか。その理由を探るために、茉莉には幽体になってもらって、研究室に忍び込んでもらったのだ。

『それで何か聞けたか』
『んー、あのおっさん、ずっと難しそうな文章読むばっかで喋らんから困ったけど』

 おっさん、とは、たぶん教授のことを言っているのだろう。

『今夜! ついに良い証拠を得られましたぜ! 1人でウイスキー飲みながら、「井学くんすまんな……」とかよーわからんこと言うてた! 酒を飲んだ大人ってなんであんなアホそうなんかな?』

 アホの茉莉にアホそうだと言われる大人に紫陽は軽く同情する。

『なんて収穫だ。結局、井学が連れて行かれないのはどうしてだったんだ』
『おっさんなりに、彼の性格を気にしていたらしくて、家族と関わってほしかったみたい。いつでもデータの発表はできるから、今は倒れた姉と、自分の親と向き合ってほしいって』
『なるほど。……ちなみに、それは盗聴か何かできたか?』
『まかせんしゃい。ばっちりボイスレコーダーで録ってきた』
『流石だ! 幽霊なので盗聴はセーフだろう。それを井学に聞かせてみる』

 こうして紫陽は教授の独り言を盗み聞きしたボイスレコーダーを得た。幽霊なので法は整備されていないし、そもそも幽霊だから法に『触れる』ことはできない、と紫陽は勝手に思っている。

     ◆

 そして、大学の入り口。ボイスレコーダーが、酔ったおじさんの声を垂れ流している。

『……。井学くん。君はいつでも世界に羽ばたくときができる。孝行したいときに家族はいないものだ。……すまないけど、今はお姉さんや両親と向き合ってほしい。これを直接言って彼は聞いてくれるだろうか。学会に行けなくなることで、彼が家族と向き合ってくれると良いのだが』

 なんて都合の良い独り言だろう。そのカワイさに紫陽は感動した。

「これは、うちの教授の声じゃないか」
「そうだ」
「いつこんなことを?」
「夜に、独り言だ」
「どうして独り言を愛宕さんが」
「JSは世界を救うと言っただろう。これくらい容易い」
「そ、そうか」

 ゴスロリ成人男性は、しばらく考えこんだような顔をしていた。

「ラボの人間なのに、わざわざ僕のプライベートまで考えているなんて思わなかったよ。……本当に、世間というのはヒトをよく見ているものだね。僕は、全くそんなこと分かっていなかった」

 春風が金髪のウィッグをなびかせる。その奥にボサボサの黒髪が見える。

「……僕は、僕なりの家族孝行として、学会に行こうと思う。それは社会還元とか活躍することが家族のためとかじゃなくて、アメリカに旅行してきたよ、って、家族に写真とか見せてあげたいから。姉さんはしばらく外出られないしね。––––今回の発表が出せたら、ゴールデンウィークに帰省してもいいかも。たまには実験から離れて……あと女装の誤解も解かないといけないな」

 今の彼は塾で会ったときと同じく早口だけど、その中身は他人との触れ合いを論じていて、かつての演説よりはよほどカワイイ。

「いいんじゃないか、学会に行っても。きっとこの教授ならすぐに話を通してくれる」
「準備だけ急がないとね。あと1週間しかないのに、何もできてない」
「大丈夫なのか、それは」

 大学の前を通り過ぎる人々が、奇妙な格好をする井学にいびつな眼差しを向ける。その視線を受けながらも、彼は自信ありげに紫陽の質問に答えた。

「僕を誰だと思っている」

 ペンダントは、もう動くことも光ることもない。彼は、十分にカワイくなったはずだから。

「そうだな、井学南斗は」
「僕は」
「「天才だ」」

 彼は女装姿のままキャンパスを駆けて研究棟へ入っていった。紫陽は、彼が研究室のメンバーにあらぬ誤解をされないことを祈るばかりであった。
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