朝露の滴

文字数 1,573文字

 顔を上げ、女は辺りを見回す。
 置時計は無い。ただ、寝台に投げ出されている腕時計が示すのは、七時五十五分。
 朝か夜かは分からない。
 携帯電話は電池を抜く様に指示され、今は使えない。
 伏せっていた寝台から上体を起しても、身体が痛む感覚は無かった。
 部屋に戻ったのがいつで、眠りに落ちたのがいつか、まるで覚えていない様に。
 ただ、口の中が妙に気持悪く感じられ、女は立ち上がるまま台所の流しに向かう。歯を磨けば治まるだろう、と。
 口元を指先で拭い、触れた肌の汚れた様子に、七時というのは、朝なのだろうかと女は石鹸を見た。
 だが、顔を洗って半日以上が過ぎているのなら、そんな物は分からないとも思う。
 顔を洗い、前髪をかき上げると、皮脂のべたつきと澱粉質のざらつきに頭皮が悲鳴を上げている事に気付く。しかし、髪を洗おうという気にはならない。
 暫く流しの前で立ち尽くし、女は徐に冷蔵庫を開ける。
 何も知らないまま買い込んだ食材の詰め込まれた冷蔵室の、低音の抽斗の中にある生肉が目に止まり、女は抽斗を開ける。
 生の牛肉は時間を如実に物語る様に、その鮮度を落としていた。今日には加熱して調理をしなければならないだろう。
 そんな生肉を見て、女は冷蔵室の扉ごと抽斗を閉め、その場に屈み込む。

 大学を出てからというもの、親の伝手で承諾せざるを得なかった、なんの面白みも無い仕事に鬱屈していた。
 そんな日々の中でも、彼女は友人と二人、服飾雑貨や文房具を企画して販売しようと話を進めていた。そして、三ヶ月ほど前、もう役所での仕事を辞めたいと切り出し、母親と激しい言い争いに鳴った挙句、友人と企画した商売は白紙にせざるを得なくなった。
 鬱屈した日々がまた始まる。二ヵ月半前、彼女は絶望していた。家を出て何か職を探そうとも考えたが、父親に強く引き留められ、ほぼ強制的に役所での仕事を続けさせられる事になり、鬱屈した日々の憂鬱は暗黒へと姿を変えた。
 ――あんたに商売なんてできっこない、そもそも才能なんて無いんだから諦めなさい。会社を残すつもりだって無い、あんたは全部つぶしてしまうだけ、それなのに、どうして商売が出来るのよ。それに、社会経験も無いくせに、家を出るなんて甘ったれた事言うもんじゃないわ。折角役所で仕事があるんだから、ちゃんと働いて、さっさとお嫁に行ってちょうだい。
 彼女は母親を恨んだ。何をする前から何もかもを否定され、早く嫁に行けと人生を決めつけられた事を。
 東京での仕事を切り出された時、迷いはあった。家を離れる事に躊躇いがあった。だが、東京に知る人が一人居た事もあり、家を出られるなら出たかった。なにより、条件は悪く無く、足枷になっていた学費の借財の返済がそれで叶うならば、それまで働けばいいと、彼女は話を承諾した。
 こんな結果になるとは知らずに。

「大丈夫ですか」
 突然降ってきた声に、女は顔を上げる。
 頬を伝った涙も乾き切らないその顔に、春月は眉を顰めた。
 女は目を伏せ、春月から目を逸らす。
「返事が無かったので、開けさせてもらいました……外で待っています、着替えて、出てきて下さい」
 春月は立ち上がり、静かに女の傍から遠ざかる。
 女の眸からは止めどなく涙が零れ落ち、立ち上がろうとはしない。
「判断が……いつも正しいわけは、有りません」
 背を向けた春月は、女には真意の伝わらない言葉を口にする。
「良かれと思った事が裏目に出る事もあれば、そうせざるを得なかった事が最悪の結末を見せる事もあります」
 女は春月の背を見遣る。
「ただ……私は貴女に、そんな後悔をさせたくは有りません。私一人で、十分ですからね」
 静かな靴音と共に、春月は去ってゆく。
 女は暫く白い床を見つめ、漸く立ち上がった。
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