無意味な決まり事

文字数 2,086文字

 三十六階の屋内運動場の片付けを花房に任せて射撃訓練室に向かいながら、あの惨憺(さんたん)たる測定結果がなぜ生じたのか、春月は思いを巡らせていた。
 昇降機を降り、射撃練習室と外部を仕切る最初の扉を開けた時に出た結論は、神経系に何らかの異常が生じているという仮定。
 だが、腑に落ちる物ではなかった。急激に何らかの異常が発生した可能性はあったが、一人で袴の着付けを難なくこなせるにもかかわらず、競技で頻繁に投擲(とうてき)する前提の球を持ち上げる事がままならないというのは、にわかに信じ難かった。
 白く細い廊下を進み、拳銃射撃訓練室の前室に入る。
 棚の下段の頑丈な衣類掛けから防弾チョッキを取り、上段から|耳当て〈イヤーマフ〉と安全眼鏡を取る。
 彼は常々思っていた。実際の現場では防弾チョッキどころか、防刃チョッキさえ身に着ける事が無いにも関わらず、何故、訓練で身に着ける必要があるのか、と。
 ――特対十三係、対応官、春月、入室を許可します。
 彼は実弾を保管する訓練場へと続く最後の扉を開け、壁際の棚の鍵を開ける。
 正規の警察官が所持するのと同じ回転式拳銃に三発の実弾を込め、射撃位置に置かれた台にそれを下ろす。そしてもう一丁、別の拳銃を棚から取り出し、接続されている細いケーブルの平たい端子を左手首の認証端末につないだ。

 遅れる事十数分、往復持久走の十本目で派手に転倒した時よりも、更に暗澹(あんたん)たる表情を浮かべた女を連れ、花房は射撃練習室に向かった。
「此処は一人ずつ、認証ブレスを読ませて進まなきゃいけないから気を付けてね」
 花房は左手の端末を感知機に(かざ)し、入室許可を得る。
 女もまた同じ様に端末を読ませ、花房に続く。
「此処の扉は全部さっきと同じ様にしないと開けられないし、棚の扉なんかは触るだけで殺されるから、不必要な物には絶対に触らないでね。後、余所見も厳禁。拳銃を持ってる時は勿論、持って居ない時は出来るだけ下の方を向いて、間違っても使ってない拳銃になんて目を向けちゃ駄目だよ」
 軽い口調で厳しい規則を伝えながら、花房は奥へと進み、前室の扉を開ける。
「訓練室に入る時は、防弾チョッキとゴーグル、それとイヤーマフは必須だからね。あと、火薬を使った拳銃を撃つ時は、マスクも着けといた方がいいよ。使い捨てマスクは其処ね」
 マスクの入った箱に視線を向けながら、花房は防弾チョッキを身に付ける。
「あ、女子用はそっちの棚にあるからそっち使っていいよ、今は僕と春さんしか居ないから」
 女は棚から防弾チョッキを一着取り出すが、手に取ったところで身に着け方がよく分からない。
「ベルトは全部緩んでるから、そのまま被って、肩紐と脇のベルトを適当に短くして、体に沿う様に直すんだよ」
 動かない女を見かねた様に花房は言う。
 女は言われた通りそれらを調節し、花房がしているのと同じ様に安全眼鏡を掛け、耳当てを手に取る。
「イヤーマフは射撃が始まるまでは首に掛けといてね。それじゃ、入るよ」
 花房は最後の扉を開け、射撃訓練室へと入る。そして、春月がそうした様に、棚から拳銃よりは一回り大きな拳銃を取り出し、自分の認証端末とそれをつなぐ。

 遅れて入室した女は、二人の男と向こう側に見える的を交互に見遣る。
「拳銃射撃の基礎点を付ける為の射撃試験を受けて頂きます。実演しますから、良く見ていて下さい」
 言って、春月は拳銃を用意した台に歩み寄る。
「用意した拳銃は、警察官が標準装備している回転式拳銃です。実弾は三発込めています。指示を受けたら台の前に進み、拳銃を構えて下さい」
 春月は銃を手に取り、銃口を的に向ける。
「グリップ部分にしっかり手のひらが当たる様に持って下さい。指は用心金に掛け、引き金には掛けない様に。引き金を引くのは利き手で、もう片方の手は利き手を上から握って下さい。この時、上から握る方に力を入れ、利き手に力を入れ過ぎない様にして下さい。ただし、上になる親指は撃鉄を起す為に空けておくように」
 春月は右足をやや引いて、姿勢を少し傾けた。
「利き手側の足は半歩ほど後ろに下げ、少々外側に開いて下さい。的に対して正面を向き、重心を前にして、自然な前傾姿勢を取って下さい。肘も伸ばしきらず、適度に力を抜いて下さい」
 腕を上げ、的の中心と焦点を合わせて彼は続ける。
「重心にある突起、フロントサイトとリアサイトが、狙う的の中心と直線上になって見えれば、命中するはずです。左手の親指で撃鉄を起して引き金を引き、右手の指の位置を戻したら、もう一度撃鉄を起して、三発全て撃って下さい」
 銃を下ろしながら、春月は後ろに下がる。
「イヤーマフを装着して下さい、実演します」
 準備を整え、春月は再び銃を構えた。
 三発の実弾が、けたたましい発砲音と共に放たれる。
 ただ、弾は的にこそ当たっていたが、中央には当たらなかった。
「的に届けば十分です。弾の装填が出来たら、射撃して下さい。くれぐれも、銃口を的以外に向けない様に」
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