杜撰な管理人

文字数 2,040文字

 午前九時を回る頃、春月に呼び出された二人は昇降機で三十六階に向かった。
 扉が開いた先にあったのは、酷く無機質な白い空間と重厚な引き戸。
 花房は何も言わずにその扉に進み、引き戸に手を掛ける。
 感度の高い感知器は、少し離れた花房の認証端末を読み込み、その記録を残した。
「此処のセンサーは感度が良いから、普通に入ればいいよ」
 女は扉の感知器に目を向ける。小さな画面には、解錠中と表示がされていた。
 開かれた扉の先にあったのは、学校にあるそれと遜色のない屋内運動場。
 三十六階という高層階にそんな物があるのかと感心しながら、女は花房に続く。
 出入り口に設けられた、申し訳程度の玄関には、貸出用の運動靴が置かれていた。
「一応紫外線消毒はされてるから、適当なの借りてね」
 男物が置かれている左側の棚に、女の足に合う物はなかった。しかし、外見に変わりの無い運動靴が男物か女物か判断が付かず、女は右手の棚から適当な大きさの物を取り出して足を入れる。

 奥では、春月が往復持久走の走行幅を計測していた。
「更衣室は倉庫の隣の扉だよ、さ、着替えておいで」
 花房は女を奥に向かわせながら、床に目印となるテープを貼る春月の方に進む。
「準備、出来ました?」
「えぇ、お待たせして申し訳ありません」
「別にいいんですけど、何かあったんですか?」
「照明が点滅してしまって、点検を呼んでいたもので」
「よく使ってる割に、管理が悪いですね」
 花房は苦笑しながら天井を見遣る。広さに対して、照明が少ないと思いながら。
「あれ、どうかしたの?」
 視線を更衣室方に向けた花房は、立ち尽くす女に声を掛ける。
 女はふたつの扉と花房を交互に見た。
「今は誰も居ないから、どっちでもいいよ」
 その言葉に、女は向かって右手にある更衣室へと進む。
 その一部始終を眺めながら、春月は苦々しい焦燥感に駆られた。
 早くどうにかしなければ、問題が次々に生じてしまうだろう、と。

「……あ」
 ふと、花房は声を漏らす。
「どうかされましたか?」
「あの子、袴なんて着けられるかな」
 春月は怪訝に花房を見る。
「運動着を持ってなかったんで、ロッカーにあった道着を持ってきたんですけど」
 花房にしてみれば、袴の着脱も慣れた物だったが、紐に練習用の木刀を差しておく為、面ファスナーで簡単に着脱出来る袴は備え付けていない。
「おそらく大丈夫だと思いますよ」
 春月は言って、伸ばした巻尺を元に戻す。
「そうですかね」
 花房は再び更衣室を見遣る。
 上衣は合わせを間違わない構造であり、袴が付けられなければ、トラウザーズで出てくるだろうと考え、彼は視線をあたりに向ける。
 程なくして、更衣室の扉が開き、小さな人影が出てきた。
「花房君、上衣と袴の大きさは揃っていましたか」
「さあ。一番小さいのを持ってきたはずですけど」
 袴の丈を詰める為、女は紐の位置を上にした不格好な着付けをしていた。
「それで走れそうですか」
 近付いてきた女に、春月は問う。
「紐に滑り止め加工がされているはずなので、劣化してなければ大丈夫だと思います」
 女は不機嫌というよりは神妙な口調で答える。
「そう、ですか……それでは、始めましょう」

 女は指示されるまま、倉庫の前に用意された握力計を持ち上げる。
 大学に進んだ時にも経験していたが、こんなにも重く、固い物だったのかと思いながら、持ち手を握った。
 横でそれを見ていた春月は、思わず眼鏡の下の目頭を押さえる。
「今までに、測定した事はありますか」
「は、はい」
「その時の結果を覚えていますか?」
「えっと……大学の一年の時に、三十キロくらいです、両方とも」
 示された結果は、右手で十二キロ。規定通りに両手とも二回測定したが、その結果は下がる一方だった。
 握力が十キロを下回れば、日常生活に支障をきたしているはずだと春月は首を傾げる。しかし、女は猟銃を扱っていた経験がある。
 すべき事柄が多い為、春月は疑問を棚上げし、次の種目の測定を指示した。
 しかし、立ち幅跳びを測定しようとすれば、受身も無しに尻餅を付く格好となり、反復横跳びもまた同じ様になってしまう。
 春月はただ首を傾げながら、記録が取れなくとも、指定された種目の測定はしなければならないと、女にハンドボール競技用の球を渡した。
 距離測定器の電源を入れ、数メートル先に花房を立たせる。
「投げる方向に対して、体を横向きに。全身をひねる勢いを付けて、肘を伸ばして、四十五度を目安に投げて下さい」
 女は頷くが、いざ投擲(とうてき)しようとすれば、指先の力が無い為に球はあえなく落下し、一メートルの記録も残らない。
 春月は眉を顰め、何故かと思案する。だが、理由はまるで思い浮かばない。
「……やれと言われた内容は実施しました。往復持久走にしましょう」
 測定器の電源を落し、春月は花房を見た。
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