薄氷の花

文字数 2,905文字

 春月が引き出すだけ引き出した医療記録は池田に渡され、池田は彼女を突然に襲った動悸の原因を探ろうと、医療記録を遡った。
 だが、その手はある時期を境に止まり、彼は彼女が生まれた時点から記録を読み直し始めた。
 ――こんな場所に置いていい人ではない……。
 昨夜、池田が絞り出した言葉に春月は眉を顰めた。
 医学の知識に乏しい春月は、池田の語る言葉を紐解く様に話を聞き、その真意を確かめた。
そして、一夜が明けた始業前、春月は兼定を資料室に呼んだ。
「つまり……能力はとんでもなく強いかもしれないが、身体は生きてるのが不思議なほどガタガタだ、と」
「ごく平たくすれば、そういう事ですね」
 向かいに座る兼定から、春月は視線を手元の紙へと戻す。
 仮死状態での出生が元となった臍帯血の輸血、それが、彼女にとって一度目の自家幹細胞移植であり、彼女自身も語っていた事だった。
だが、医療記録には、残酷な続きが有った。彼女はその後にもう一度、今度は骨髄由来の間葉系幹細胞の投与を受けていたのだ。
 池田は、自分が知る限り、二度に亘る自家幹細胞移植を受けている場合、それも、いずれの場合も脳の損傷を回復させる目的である場合、正常な回復を遂げる症例は少ないと言った。
 しかも、医療記録に残されたCT写真を見た池田は、思わず天を仰いでいた。治療をしていなければ、今ごろ、大脳の脳細胞はまず映らなかっただろう、と。それが意味するところを春月は理解し、歯噛みした。
「しかし……脳細胞がまともに育たないはずの能力者でも、そうなるのか?」
「我々変異体には拮抗遺伝子が備わっていますし、完全変異体であれば、その遺伝子は完全に働き、幾つかの先天性疾患、つまり、遺伝子異常を発現させません。勿論、彼女の場合は、蛋白質に異常を示す遺伝子も持っていますが……セカンドである事が、どう影響しているのかは、まだ分からない部分も多い、と」

 医療記録に残されていたのは、受診の記録だけではなかった。
 彼女の母親には染色体異常があり、二つの染色体の一部分が、それぞれに入れ変わっている。母親自身に異常は現れていないが、染色体異常に脆弱な変異体は、入れ変わりの生じた染色体を持つ生殖細胞から生まれる事が出来ず、確率的な不妊になる。
 医療記録には、その事を心配した母親が依頼した染色体と遺伝子の検査結果も記されていた。
 その結果に、池田は思わず顔を顰めた。
 母親が心配していた染色体転座は認められなかったが、彼女には三つの異常が有った。
 まず、胎児期の脳形成にかかわる遺伝子の異常があり、重症の場合には死産だった。しかし、これに関しては変異体の場合、拮抗遺伝子が備わっているとされており、完全変異体の場合は発症しない。
「それに……脳形成の異常というなら、私だって完全変異体で無ければ、此処には居なかったんですよ」
「え……」
 兼定は俯きがちな春月を見た。
「尤も、彼女と違って、発症していたとしても、人の形には生まれて居たでしょうけど……」
「それはどういう……」
「彼女の場合、変異体でなければ、最悪の場合脳が左右に分離せず、それに伴って移動する眼球も分離していなかった……貴方なら、もうお分かりですよね」
 兼定は眉を顰めた。
 目の前に居る、聡明な男が唐突に語った脳形成の異常という言葉に、僅かな狼狽を覚えた上、おそらく、着飾って座って居れば人形と見まごうであろう女が、その姿にならなかった事に、思考が混乱し、恐怖を覚えていた。
「とはいえ……問題は蛋白質の異常……レット症候群を引き起こす遺伝子変異が有る事です」

 二番目に記されていたのは、体内のある蛋白質に変異が生じている為に、神経系の発達が障害され、不整脈による突然死の危険も伴う疾患を引き起こす遺伝子変異が有るとの結果。
「だが、さっきの説明じゃ、今は治療が出来ると」
「完全変異体で無ければ、の話です。不完全変異体ならともかく、拮抗遺伝子の働きで変異が有っても神経系が十分に発達する完全変異体にその蛋白質を投与すれば、能力に変質が生じてしまう可能性が有ります……池田医師なら、完全変異体のレット症候群患者にその蛋白質の投与はしないと」
 兼定は眉を顰めた。
「そう、か……つっても、それもそうだな……自分の脳みそを自分の細胞で治療しただけで、どうにかなっちまうんだからな……だが、それの何処が」
「心臓の異常ですよ。自律神経の働きが障害される疾患でもありますし、完全変異体のレット症候群患者の追跡調査を見ると、不整脈からの突然死が報告されていたそうです。ただでさえ特殊能力の暴走、意図しない発生は心臓機能にも悪影響が有るのですから……自分の身体を念力で支えている様な彼女には、致命的になりかねません」
「そりゃそうか……しかし、勝手に引っ張り出した情報を基に採用を取り消せとは言えねぇな……」
 その言葉に、春月は表情を険しくした。この事実を隠蔽する為に、医療情報へのアクセスを遮断しているのではないのかと憶測して。

「だが、その、レット症候群とやらでも、幹細胞移植が能力を加速させるのか?」
「変異体の場合は拮抗遺伝子がありますし、遺伝子変異が有っても発症していない症例の追跡調査も調べて頂きましたが、やはり、不整脈の危険性以外、脳に何らかの悪影響があるとは言えないとの事でした。何より……彼女はセカンドです。私達を基準には出来ません」
「そうだな……」
 兼定は居住まいを正す。
「その病気を理由にした訴えは出来ねぇが、昨日の一件を元になんとか理由を付ける事は出来るだろう。あと、そのレット症候群とやらも心配だと言えば、多少足しになるだろう」
 兼定は立ち上がった。
「それじゃあ、後は頼みましたよ」
「えぇ……彼女の事、よろしくお願いします」
「あぁ」

 去ってゆく兼定を見遣りながら、春月は手元の紙に記された、三番目の病名を指でなぞる。
 能力を増強させる因子にはならないが、彼女の体を、いずれ蝕むかもしれない病。
 ――常染色体劣性遺伝型脊髄小脳変性症。
 保因者同士が子孫を残した事でしか発症しない稀な疾患である。しかし、変異体の場合、神経細胞を損なう原因となる異常な蛋白質の凝集体を分解する酵素を生得的に有しており、その疾患によって蓄積される凝集体もまた分解されると考えられている。
 だが、その酵素が活性化するのは、特殊能力の使用に伴う神経の興奮が生じ、その結果として生じるクロノスプリオンと呼ばれる人体にとっては有害な蛋白質が発生した時である。
 ――当たり前に暮らしていく分には問題無いでしょう。しかし、此処ではそのバランスが保てません。ましてや高い能力が求められる対応官など無理どころではない。クロノスプリオンの過剰発生でガイア酵素が蓄積されるシヌクレインまで回らなくなったら終わりです。
 池田の言葉を上層部に伝える術は無い。そして、春月の脳裏には嫌な想像が過った。
誰も直接手を下さず、彼女を殺そうとしているのではないかという疑念が。
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