奔放な案内人
文字数 1,716文字
「ねえ」
おぼろげな夢が、絶叫に変わる。
その声は狭く物の少ない室内に反響し、机の上の硬貨が音を立てて踊った。
薄茶色い人影は頭蓋骨が痺れるのを感じながら、呆れた溜息を吐いた。
「だ、誰ですかあ!」
寝台に突っ伏していた女は飛び上がり、その上に跳ね上がっていた。
「もー……何回呼んでも出てこなかったのは君じゃないか」
薄茶色い人影は軽く頭を押さえつつ、肩を竦めた。
「だ、だから」
「時間になっても来ないから、青鬼さんに引き摺り出せって言われたの。もしかして、時間、忘れてた?」
「じ、時間?」
女は困惑に表情を歪ませる。
「あれ? その様子じゃ聞いてない?」
人影は意外そうに目を丸くし、首を傾げる。
「じゃ、文句は直接青鬼さんに言ってね。僕は外で待ってるから、さっさと着替えてよ」
薄茶色の人影は名乗らないまま、部屋を出て行った。
引き戸が閉め切られるとともに、女は寝台の上で息を吐く。
窓の無い部屋の中では、まるで時間の感覚が無かった。記憶を遡ってみても、白板の前で喋っていた男から、部屋を出るなと厳命されたのを最後に、他人と顔を合わせた覚えは無かった。
それから後、どう過ごしていたのか、彼女ははっきりと覚えていない。
部屋の片づけをその男がした事は覚えているが、何かを食べた覚えは無い。ただ、忌々しい服を脱ぎ捨て、ベッドの上でそのままになっていた部屋着に着替えた事だけは確かだった。
だが、着替えてからというもの、どれほどの時間寝台に突っ伏していたのかは分からない。
体は凝り固まって痛んでいたが、痺れた様な感覚は無く、さほど長い時間そうして居なかった様にも感じられていた。
――このまま、ずっとこうして居たい。
彼女は動く事すらしたくは無かった。扉の向こうが、無人であるなら。
「ちょっとー、早くしてくれないと、さっきから青鬼さんから着信凄いんだけど―?」
このままでは、また何をされるか分からない。その恐怖感だけで彼女は動き出す。
居室は広い物ではなかったが、調理に耐えうるだけの台所と洗面台は別に有った。
しかし、彼女が向かうのは台所の流し台。手に取ったのは、手洗い用に出していた石鹸。
落され切らなかった化粧料と、温度の変わらない室内に居たにもかかわらず浮いた皮脂に汚れた肌が、雑に洗い流される。
投げ出していたタオルで顔を拭いながら、女はふと箪笥を見遣った。外に出される事はおそらくないだろうが、もし、屋外へ引き摺り出されてしまっては困る、と。
化粧水の上から日焼け止めを塗ろうと、女は箪笥に歩み寄り、その瓶 に手を伸ばした。
だが、彼女はその手を引いて、机の上の日焼け止めを拾い上げる。
そして、忌々しさに触れる事も億劫な男物の衣類に手を伸ばし、渋々とトラウザーズを身に着ける。
「もー、遅いよ」
言いながら、男は引き戸を開ける。
女は小さな悲鳴を上げた。
「き、着替えの」
「上と下着てたら大丈夫でしょ、ほら」
男は投げ出されたネクタイを拾い上げ、女の頭から首へとそれを下ろす。
「そのまま残しておくなんて、君、器用だね」
続けて男は緩めて外したままだったネクタイの結び目を雑に動かし、投げ出されていた上着を拾う。
「ほら、行くよ」
認証端末の上から女の手首を掴み、男は急ぎ足に部屋を出る。
「ちょっと、やめてっ」
「早くしないと、青鬼さんが赤鬼さんになっちゃうよ」
男は左手に女の手首を掴んだまま、右手を昇降機の操作盤に伸ばす。
「ちょっと遅刻かな。ま、どうせ大した話はしてないだろうけど」
男が言う間に、昇降機の扉が開く。
女は引っ張られるまま籠に押し込まれ、昇降機は動き出した。
「ほら、上着」
男に投げつけられるまま、女は上着を忌々しげに受け取る。
「研修中はちゃんと着ておかないと、叱られるよ」
籠はほどなくして十三階に停まり、扉を開けた。
「さ、急ぐよ」
男は再び女の手首を掴み、籠から一直線に会議室へと向かう。
「其処で待ってて。すぐ終わるだろうから」
男は女の手首を放し、会議室の後ろ側の扉をそっと開いた。
おぼろげな夢が、絶叫に変わる。
その声は狭く物の少ない室内に反響し、机の上の硬貨が音を立てて踊った。
薄茶色い人影は頭蓋骨が痺れるのを感じながら、呆れた溜息を吐いた。
「だ、誰ですかあ!」
寝台に突っ伏していた女は飛び上がり、その上に跳ね上がっていた。
「もー……何回呼んでも出てこなかったのは君じゃないか」
薄茶色い人影は軽く頭を押さえつつ、肩を竦めた。
「だ、だから」
「時間になっても来ないから、青鬼さんに引き摺り出せって言われたの。もしかして、時間、忘れてた?」
「じ、時間?」
女は困惑に表情を歪ませる。
「あれ? その様子じゃ聞いてない?」
人影は意外そうに目を丸くし、首を傾げる。
「じゃ、文句は直接青鬼さんに言ってね。僕は外で待ってるから、さっさと着替えてよ」
薄茶色の人影は名乗らないまま、部屋を出て行った。
引き戸が閉め切られるとともに、女は寝台の上で息を吐く。
窓の無い部屋の中では、まるで時間の感覚が無かった。記憶を遡ってみても、白板の前で喋っていた男から、部屋を出るなと厳命されたのを最後に、他人と顔を合わせた覚えは無かった。
それから後、どう過ごしていたのか、彼女ははっきりと覚えていない。
部屋の片づけをその男がした事は覚えているが、何かを食べた覚えは無い。ただ、忌々しい服を脱ぎ捨て、ベッドの上でそのままになっていた部屋着に着替えた事だけは確かだった。
だが、着替えてからというもの、どれほどの時間寝台に突っ伏していたのかは分からない。
体は凝り固まって痛んでいたが、痺れた様な感覚は無く、さほど長い時間そうして居なかった様にも感じられていた。
――このまま、ずっとこうして居たい。
彼女は動く事すらしたくは無かった。扉の向こうが、無人であるなら。
「ちょっとー、早くしてくれないと、さっきから青鬼さんから着信凄いんだけど―?」
このままでは、また何をされるか分からない。その恐怖感だけで彼女は動き出す。
居室は広い物ではなかったが、調理に耐えうるだけの台所と洗面台は別に有った。
しかし、彼女が向かうのは台所の流し台。手に取ったのは、手洗い用に出していた石鹸。
落され切らなかった化粧料と、温度の変わらない室内に居たにもかかわらず浮いた皮脂に汚れた肌が、雑に洗い流される。
投げ出していたタオルで顔を拭いながら、女はふと箪笥を見遣った。外に出される事はおそらくないだろうが、もし、屋外へ引き摺り出されてしまっては困る、と。
化粧水の上から日焼け止めを塗ろうと、女は箪笥に歩み寄り、その
だが、彼女はその手を引いて、机の上の日焼け止めを拾い上げる。
そして、忌々しさに触れる事も億劫な男物の衣類に手を伸ばし、渋々とトラウザーズを身に着ける。
「もー、遅いよ」
言いながら、男は引き戸を開ける。
女は小さな悲鳴を上げた。
「き、着替えの」
「上と下着てたら大丈夫でしょ、ほら」
男は投げ出されたネクタイを拾い上げ、女の頭から首へとそれを下ろす。
「そのまま残しておくなんて、君、器用だね」
続けて男は緩めて外したままだったネクタイの結び目を雑に動かし、投げ出されていた上着を拾う。
「ほら、行くよ」
認証端末の上から女の手首を掴み、男は急ぎ足に部屋を出る。
「ちょっと、やめてっ」
「早くしないと、青鬼さんが赤鬼さんになっちゃうよ」
男は左手に女の手首を掴んだまま、右手を昇降機の操作盤に伸ばす。
「ちょっと遅刻かな。ま、どうせ大した話はしてないだろうけど」
男が言う間に、昇降機の扉が開く。
女は引っ張られるまま籠に押し込まれ、昇降機は動き出した。
「ほら、上着」
男に投げつけられるまま、女は上着を忌々しげに受け取る。
「研修中はちゃんと着ておかないと、叱られるよ」
籠はほどなくして十三階に停まり、扉を開けた。
「さ、急ぐよ」
男は再び女の手首を掴み、籠から一直線に会議室へと向かう。
「其処で待ってて。すぐ終わるだろうから」
男は女の手首を放し、会議室の後ろ側の扉をそっと開いた。