雨の影

文字数 2,356文字

 時刻は正午を過ぎ、午後一時になろうかという頃、資料室の椅子が音を立てた。
「お疲れ様です、係長」
 敬礼から顔を上げた黒金は上司である興里(おきさと)にそう告げる。
「いや、こちらこそ総司を連れ出してしまって申し訳ない。そちらの巡察は大丈夫だったか?」
「清水副主任が居りますので、問題はありません。むしろ、あれの監督は自分にしか出来ませんので」
「そうか……」
「彼女のお守は僕の仕事だから、早く帰って休みなよ」
 興里の言葉が途切れた隙間に口を挟んだのは、その後ろに立っていた花房だった。
「言われなくてもそうさせてもらう……では、自分はこれで」
 黒金は興里に向けて再度敬礼し、椅子を戻した。
 彼らの会話を棚越しに聞いていた女は、近づく足音に目を向けていた。
「君が新入りの補佐官かね」
 見知らぬ男の姿を認め、女は目を丸くしてそちらを見ていた。
「ほら、立って、立って」
 乱暴に促され、女は椅子から立ち上がらされる。
「ちょ、ちょっと」
「この人は僕達の上司、十三係の係長、興里さんだよ」
 女は乱暴に袖を掴み上げた花房に不服な視線を送りつつ、居住まいを正して形だけの挨拶を述べる。
「まだ分からない事も多いだろうが、分からない事は遠慮なく、研修担当の北海君やそこの花房君に聞いてくれ。期待しているぞ!」
 事情は知らない様に屈託の無い表情を浮かべ、激励すべく伸ばされた興里の武骨な手から、女は椅子を蹴り倒す程身を仰け反らせて逃げる。
「ちょっと」
 花房は怒りに眉を顰めるが、その表情から怒りが消えるのに時間は掛らなかった。女は興里を嫌悪しているのでは無く、畏怖していると気付いたのだ。
 女の吐息は、震えて乱れていた。
「もー、興里さん、そんな大きな手がいきなり伸びてきたら、びっくりしちゃいますよ」
 花房は苦笑いを浮かべ、倒れた椅子を立て直す。
「君も、こんな事で驚いてちゃ、この先務まらないよ? それより、興里さん、上の人とお昼食べるんでしたよね」
「あ、あぁ、そうだったな。お前も連れて行きたかったのだが……新人研修は上司として成長する最高の機会だからな、しっかり勤めるんだぞ」
「はい」
 興里は女に視線を向け、良い結果を期待していると言い残し、資料室を出た。
「さて、と……お勉強は一旦止めにして、お昼食べに行こっか」
 興里を見送った花房は、何事も無かった様にそう言って女を見た。
「え……」
「僕もお腹空いたし」
「あの、これは……」
 女は困惑気味に、机の上に広がる紙の束と花房を交互に見る。
「あぁ、備品だけ返してくれる? 執務室の方に一旦入れておけばいいよ。此処で君の監督なんてつまらないだけだし」
「は、はぁ……」
 女は紙の束にペンを留め、資料を一纏めにする。
「ところで、その風呂敷包み、何?」
「あ、これは……剣術の先生が、この道着は丈が合って無くて、刀を抜くのには向いていないからと、代わりの着物を用意して下さって……お稽古が終わるまで、持って居て構わないと……」
「へー……若先生、随分お人好しだね」
 花房は怪訝にその風呂敷包みを見遣りながら、それも執務室に入れておこうか、と、続けた。

 女の持ち物を執務室の空いた棚に預け、二人は食堂へと向かった。
 食堂に慣れない女は、前に並ぶ職員の行動を真似る様に、ぎこちない手つきで注文を入力する。
 花房は女の後ろから離れぬ様、手短に注文を済ませ、その後ろに張り付いて奥へと進む。
「あそこの壁際に行くよ」
 硝子の壁に隣接した、二人掛けの席へと女を向かわせ、花房は出入り口を背に座り、女を向かいに座らせる。
 女は器の中に浮かぶ、まるっきり同じ形の野菜に溜息を洩らす。
「どうかした?」
「あ、いえ……此処、全部合成食品なんだな、って……」
「当たり前でしょ。あれだけ早く出てくるのは、全部そうに決まってるじゃない」
「ですよ、ね……」
 女は諦めた様にスープを口にした。
 一方、花房は五目うどんを啜りながら、近くに不穏な気配が無いと理解し、安堵する。
 しかし、暫くして、覚えのある気配に彼は顔を上げた。花房が顔を上げると同時に、ガラスの向こうで春月は会釈をする。
「あの……」
 春月が通り過ぎて行くのに気付いた女は花房を見た。
「春月さん、戻って来られたんですか?」
「みたいだね」
 女は、何処に行っていたのかと聞きたいのを堪え、味気無いパンを口に入れる。
「それにしても、折角外に行ってたのに、食べて来なかったのかな」
「え……」
 女は顔を上げ、花房を見る。
「あぁ……君、規則はまだ覚えて無いんだっけ。あのさ、春さんや僕の階級は対応官で、保安官や分析官よりも行動の制限が緩いんだよ。決められた範囲内なら、出掛ける事だって出来る。それこそ、夜の街に出る事もね」
 女は目を丸くした。
「それに、僕達は対応官の中でも主任って肩書を貰ってるから、行動範囲は広く認められてて、奥多摩の山の中に行く事も出来るんだよ。勿論、GPSが有効じゃなきゃ出られないけれど。とはいえ、僕達みたいな人間の入れるお店は限られてるし、外で食べるのは巡察で外に出ている時くらいなんだけど……あの人、今は巡察の当番から外れてるし、ずっと引き込んでたからね……」
 表情を曇らせるよりも早く、再びうどんを啜る花房を見つめながら、女は奥歯を噛み締める。
 ただ、変異体であるだけで、何故、此処まで虐げられなくてはならないのか、と。
 しかし、それでも彼女は自分がそうである事を恨みはしなかった。
「狂ってる……」
 呟いた言葉に、花房の瞳が向けられる。だが、女はその真意を口にする事は無く、澱粉の塊でしかないマカロニを口に入れた。
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