無機質な部屋

文字数 1,946文字

(……あれ)
 やや右に向けられたその瞳が最初に見たのは、壁。本来なら、扉が見えるはずだった。
 ゆっくりと寝がえりを打つ様に左を向くと、枕元には腕時計があった。
 文字盤が示すのは、六時前。
「ん……」
 上体を起すと、薄い上掛けの下に、見覚えの有るバスタオルが入っていた事に気付く。
 そして、肩甲骨の下のあたりから腰に至るまでの酷い倦怠感と、二の腕を中心に首筋や前腕にまで通じる熱っぽさの不快感に耐えきれず、上掛けを手繰り寄せて抱え込む。
 何度か深く息を吸い、漸く座って居られる状態に至った。
 寝台の下を見ると、脇の机には錠剤と説明書きらしき物が残されていた。
 大腿部に酷い筋肉痛の様な痛みと灼熱感を覚えながら寝台を降り、それらを確かめる。
 錠剤の下の用紙には、錠剤が鎮痛剤と胃粘膜を保護する薬剤である事、それらは少量の食品を摂取してから服用する事、そして、緊急に使用した坐剤の効果が残っている為、約六時間が経過する午後十一時頃までは服用しない様にとの事が記されている。
 身動きが取れない程の激痛は治まっているが、腕時計の示した六時が夜か朝かは分からない。そんな事を考えながら視線を動かすと、手のひらほどの紙片が別に置かれていた。
 錠剤の下の用紙とは別人らしい、整った筆致で記されていたのは、午後九時頃まで部屋に留まっていたが、目を覚ます様子も、薬の副作用が起きている様子も無かったので、女性医務官の菊地に巡回を依頼した事、彼女は職権で解錠して室内に入るが、医務係の医務官は原則として武装していない事、そして、菊地に対して、女がこの内容を読んでいないなら伝えて欲しいとの旨が記されていた。
(それじゃあ、今は……)
 女が顔を上げると、何者かが扉を叩く。
「医務係の菊地ですー、入りますよー」

 女が返事をする間も無く、菊地は扉を開ける。
「あぁ、起きてたのね。痛みは引いてる?」
「あ、はい……」
「多分、ストレスで神経の活動が過剰になったんだろうって先生は言ってたけど……他に調子の悪い所は無かった?」
 菊地は女の隣に歩み寄りながら、女を寝台に座らせる。
「いえ、これと言っては……」
「そう……ところで、今までの医療記録は何か持ってる?」
「え……」
「麻疹と破傷風の予防接種の記録が欲しいんだけど……データベースがダウンしてて確かめられなかったの」
「そんな……保険証があれば大丈夫だって、何も持ってないんですけど」
「そっかぁ……ま、仕方ないわね。データベースが復旧するまで待つわ。それはそうと、九時前には北海さんがこっちに来ると思うから、それまでに何か有ったら、認証ブレスの緊急通報で教えて頂戴」
 女は左手首の認証端末を見遣る。
「赤色のボタンで医務係直通になる様に昨日設定してもらってるから、それを押してね。八時くらいまでは私が受けるけど、池田先生もそろそろ起きてるでしょうから、何かあれば直行してもらうわ」
「ありがとうございます……」
「それじゃ、私は一旦戻るわね。それと、何か食べられるようなら、少し何か食べておいた方がいいわ。痛みがぶり返してきたら、すぐにお薬飲んだ方がいいわ」
「そうします……」
 菊地はお邪魔しましたと言い残し、部屋から出て行った。

 女は再び立ち上がり、冷蔵庫に向かう。
 背筋や二の腕にはまだ倦怠感が残っていたが、動けないほどではない。
 冷蔵庫を開け、冷蔵庫の中で着実に時間を重ねていた鶏肉と榎茸(えのきたけ)を取り出し、台所用品を詰めていた段ボール箱を開ける。
 小ぶりな包丁とまだ新しいフライパンの梱包を解き、軽く水で洗って、フライパンを焜炉に据えた。だが、焜炉に火は点かない。
 フライパンの水滴を乾かす事は諦め、薄い樹脂のまな板と調味料を用意し、包丁を握った。
 料理をする事はまず無かった生活。それもまた、家を出る事を反対された理由のひとつだった。だが、一人暮らしをしなければしないだろうし、お嫁に行くなら料理のひとつくらい出来なきゃ話にならないから、と、心外な言葉を逆手に家を出た。
 ささみのスジを取る為に持ったのは金属のフォーク。母親が見たら呆れて取り上げられてしまっただろうと思いながら、動画で見たのと同じ様にして作業を進めた。
 切った具材をフライパンで加熱しながら、味を調える段に入り、女は苦笑いする。いつも食べていたはずの味付けも、いざ自分でしてみようと思えば、上手くいかない物だな、と。
 肉をひとかけら口にしたところで、女は俯いた。
 油が爆ぜる音、醤油の焦げた香り。そんな、本来なら当たり前の光景が、ただ悲しかった。
 時間すら分からない棺桶の様な部屋の中、それがあまりにも不似合いで。
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